[资料] 崔泓熙谈大山倍达
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Moon残雪 楼主
一楼仍旧是度娘的~
2012年05月26日 15点05分 1
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Moon残雪 楼主
[资料] 崔泓熙谈大山倍达
キム博士:
あなたと大山倍达氏は、かつてテコンドーの普及のために共に働こうとしましたが、この协力関系は成功しませんでしたね。
崔将军:
1966年、アメリカから戻ってくる途中、私は东京に立ち寄りました。私の友人が、大山倍达が日本の国籍を取ろうとしていると教えてくれたのです。
ご存じのように、大山倍达は朝鲜で生まれています。彼は大変幼い顷故郷を离れ、人生のほとんどを在日朝鲜人として过ごしてきました。
私は彼に会って、彼が日本国籍を取るのを止めさせようとしました。
 最初に私は、彼の空手における功绩を褒め称え、そして彼の韩国にいる弟の生活について话しました。
私は、韩国は彼のような人间が必要だから、韩国に帰ってくるべきだと告げました。
我々は、テコンドーの発展のために共に働くべきでした。そしてもし彼がそうしてくれたのなら、彼の名前は韩国の歴史に残ったことでしょう。
大山师范は、私の话はよく理解したといって家に帰り、翌日また会うことを约束しました。
 次の日の朝、私は大山师范の仲の良い友人であるLee Sung Woo氏から、前日の午后私と大山师范が话をした后、大山がLee氏を访问したことを闻きました。大山师范はLee氏にこう言いました。
「自分は朝鲜で生まれたが、幼い顷日本に来た。佐藤栄作首相のおかげで今日ここまで成功することができた。佐藤首相が自分に日本人になることを勧めてくれたんだ」
 Lee氏と话した后、私は大山师范が日本国籍を取ることをためらっていると思いました。そこで私は大山师范を韩国へ呼びました。我々はソウルと非武装地 帯(军事境界线南北4キロ地帯)を访れました。私は彼のためにテコンドーの演武会を企画しました。
それから我々は彼の故郷を访问し、彼は弟や亲戚の人と再会しました。私はまたKBSテレビの、彼へのインタビューも企画しました。日本に戻る前、彼は金浦空港で私に言いました。
「単纯に考えて、自分はこのような环境の中でやっていけるとは思えない」そして彼は韩国を去りました。
别々の道を歩みましたが、私たちは血を分けた兄弟として誓い合いました。私が兄で、彼が弟でした。

2012年05月26日 15点05分 2
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Moon残雪 楼主
金博士:
您与大山倍达先生曾打算为普及跆拳道一起工作,但是这种合作关系并未能成功,是吗?
崔将军:
1966年,我从美国回国的途中,顺便去了东京。有位朋友告诉我,大山倍达正想取得日本国籍。
如您所知,大山倍达是在朝鲜出生的。他在很小的时候就离开了故乡,人生的大部分是作为一名在日朝鲜人度过的。
我见到他后,曾打算阻止他取得日本国籍。
开头儿,我称赞了他在空手道方面的功绩,然后,谈到了在韩国的他弟弟的生活情况。
接下来,我对他说,目前韩国正需要像他这样的人,所以,他应该回韩国去。
我们俩本应为跆拳道的发展一起工作。而且,他如能做到,在韩国历史上将会留下他的大名。
大山师范说,我的一番话他非常理解,之后便回了家,我们约好第二天再见面。
第二天早晨,我从与大山师范很要好的朋友Lee Sung Woo先生那里得知,在前一天下午,也就是我与大山师范谈话后,大山去访问了Lee先生。大山师范对Lee先生说:
“我是在朝鲜出生的,但很小就来到了日本。托佐藤荣作首相的福,才有了今天的成功。而佐藤首相正在劝我成为日本人。”
和Lee先生谈话后,我觉得大山师范还在犹豫是否要取得日本国籍。于是,我把大山师范请到了韩国。我们一起访问了首尔和非武装地带(军事交界线南北4公里地带)。我为他特别筹划了跆拳道的演武会。
之后,我们访问了他的故乡,让他见到了弟弟和亲戚们。此外,我还为他筹划了KBS电视台对他的采访。在返回日本前,他在金浦空港对我说:
“如果单纯考虑的话,我很难认为自己能在这样的环境中干下去”,就这样他离开了韩国。
虽然我们走上了不同的人生之路,但我们曾是结拜兄弟——我是哥哥,他是弟弟。
2012年05月26日 15点05分 3
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金博士是谁?
2012年05月26日 15点05分 4
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Moon残雪 楼主
金基洞啊
2012年05月26日 15点05分 5
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金基洞跟崔将军的对话,扯吧,杜撰的。
2012年05月26日 15点05分 6
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