【堺の小窝160122:相关】真田杂谈
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真田一族历史、地理、文化等相关新闻、消息楼。
2016年01月22日 02点01分 1
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駅員が“かぶと”と陣羽織姿! 真田幸村で盛り上がる和歌山・JR橋本駅
産経新聞 1月22日(金)8時43分配信
六文銭の入った陣羽織姿で接客するJR橋本駅の駅員=橋本市(写真:産経新聞)
 NHK大河ドラマ「真田丸」の放送にちなみ、主人公・真田信繁(幸村)ゆかりの九度山町に隣接する橋本市のJR橋本駅で、駅員らがかぶとの形をした帽子と陣羽織を着用し、接客を始めた。ドラマ終了ごろまでは続ける予定という。
 同駅によると、ドラマの放送で隣接する市でも機運を高めようと、JR西日本和歌山支社が企画。幸村が身につけていた甲冑の色と同じ赤いかぶとの形の帽子は角などの部分を取り外すことができ、陣羽織には真田氏の家紋である六文銭がデザインされている。
 利用客の反応はさまざまで、外国人の観光客には好評で記念撮影を求められる一方、通勤・通学の乗客からは笑われてしまうこともあるという。岩田芳和駅長は「すぐ近くに幸村が住んでいた九度山があることを知ってもらえればいいですね」と話していた。
来源: http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160122-00000512-san-soci
2016年01月22日 02点01分 3
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仏壇に「六文銭」の紋 浄行寺住職の真田家
紀伊民報 1月20日(水)16時45分配信
【庫裏の仏壇下段に描かれている六文銭(和歌山県田辺市紺屋町の浄行寺で)】
 NHK大河ドラマ「真田丸」が始まり、戦国武将の真田幸村ゆかりの地が注目される中、和歌山県田辺市紺屋町の浄行寺(真田陵住職)で住職を務める真田家は、その末裔(まつえい)とされ、庫裏には真田の旗印「六文銭」を描いた仏壇がある。
 先代の住職で元中学校教諭の真田昭さん(80)によると、堺市の超願寺にいた曽祖父実浄さんが明治初期に、京都の西本願寺からの推薦を受け、当時住職がいなかった浄行寺に着任した。昭さんは「真田家の末裔の端っこか、分家の分家ぐらいに当たるのかな」と話す。
 庫裏にある仏壇(内仏)は、約450年前の寺創建当時から使われているようで何度か塗り直しが施されている。真田家が浄行寺の住職を務めるようになってからは、仏壇下段の引き出しに「六文銭」が描かれている。
 六文銭は一文銭を3個ずつ横2列に並べたのもので幸村の紋としても有名。昭さん宅の家紋は本紋が「三つ橘」で副紋が「六文銭」。仏壇の引き出しのほかにも、子どもの成長を祝う人形のちょうちんや赤ちゃんの着物にも「六文銭」が縫い付けられている。
 昭さんは「六文銭は、人が死んだ時に必要な銭とされ、合戦で出陣した際に死を恐れずに臨んでいるという心意気を示す。真田丸のドラマが始まり、ものすごく関心を持って見ている。幸村は知恵と勇気を併せ持った武将。人としても学ぶべきことが多いと思う」と話す。
来源: http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160120-00308358-agara-l30
2016年01月22日 02点01分 5
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地方上这次都憋足了劲,希望他们都能成功大借东风
2016年01月23日 14点01分 7
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真田氏ゆかりの地をめぐる第5回【砥石城】幸綱(幸隆)が一族繁栄の足がかりとした要害群 『真田三代』 (火坂雅志 著)
本の話WEB 1月31日(日)12時0分配信
素晴らしい眺望が楽しめる砥石城跡。
 砥石城とは1つの城ではなく、本城を中心に北に枡形城、南に砥石城、少し離れた西南に米山城を配した堅固な連郭式要害(山城)の総称である。いつ頃、誰の手によって築かれたかは史料が残っていないため定かではないが、室町時代後期に埴科郡坂城の村上氏が小県郡進出の足がかりとして築いた山城だとも、真田氏が真田郷から上田盆地への進出のために築いた山城だとも言われている(『真田三代』では真田幸綱(幸隆)が築いたと書かれている)。幸綱(幸隆)時代には本城しかなかったが、その後村上義清によって枡形城、砥石城、米山城が築かれた。各山城は上田市の東北部、東太郎山の東端から神川に洽って南方に突き出した細長い尾根に構築されている。上田市域に点在する30を超える山城跡の中で、最もスケールの大きな山城だ。
 天文10年(1541)、村上義清は武田氏や諏訪氏とともに海野平合戦で海野氏を滅した後、砥石城を大改修し、小県支配の拠点とした。しかし天文19年(1550)、北信への勢力拡大を目論む武田晴信(信玄)は村上氏との同盟を破棄し、精鋭部隊を率いて砥石城を攻撃。40日間に渡って猛攻を加えたが、砥石城にこもった村上軍はこれに耐え抜いたばかりか、撤退する武田軍に襲いかかって激しい追い討ちを加え、大勝利を収めた。この晴信(信玄)の数少ない大敗は後に「信玄の砥石くずれ」と呼ばれた。
 しかし翌天文20年(1551)5月26日、武田氏の配下になっていた真田幸綱(幸隆)がたった1日で、しかも敵方の半分にも満たない少兵力で砥石城の攻略に成功。幸綱(幸隆)はどのようにして攻略したのか、詳しい経緯が記された史料はないが、『真田三代』では村上氏側についていた豪族を調略して味方に引き入れ、内側から門を開けさせて攻略したと書かれている。晴信でも落とせなかった城を奪取したことで幸綱(幸隆)の武田家内での地位は不動のものとなり、晴信(信玄)から褒美として上田周辺の一千貫の領地を与えられた。海野平で獲られた先祖代々の土地を奪還したわけである。その後、幸綱(幸隆)は真田氏本城から砥石城に本拠を移し、上田城を築くまでここを足がかりに勢力を拡大していった。上田城築城後も上田盆地を守る戦略上の重要拠点として位置づけられた。徳川軍を迎え撃った第二次上田合戦でも昌幸の作戦通り、信繁(幸村)が砥石城にこもってドラマチックな活躍を見せるので、大河ドラマ「真田丸」での1つの見所となるだろう。
 各城跡では数々の遺構が残されており、現在でも往時の姿を偲ぶことができる。砥石城に至るコースはいくつかあるが、砥石城に最短で登るルートを紹介しよう。
 できれば「砥石城跡」だけではなく、本城、枡形城、米山城の山城群すべてを歩いて見てほしい。砥石城だけではいかに難攻不落な要害であったかがわからないからだ。天気のいい日は木漏れ日を浴びながらの山歩き、そして素晴らしい眺望が楽しめる。砥石城をめぐるコースはバリエーションに富み、登山道が整備されているので気持ちよく歩けるだろう。しかし、コースによっては歩行距離が長く、急なアップダウンもあるので登山靴やアウトドア用の歩きやすいズボンなど登山の装備はしっかり整えて臨まれたい。
 また、4つの要害を効率よくめぐりたいなら、西側の金剛寺公民館から、米山城→砥石城→本城→枡形城→金剛寺峠から象山街道を回って金剛寺公民館に帰ってくる象山街道・砥石城自然探勝コース(1周約2時間)がおすすめだ。
来源:http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160131-00004449-honweb-ent
2016年01月31日 11点01分 9
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真田昌幸と信繁は織田信長と対面したのか?
PHP Online 衆知(歴史街道) 2月1日(月)12時15分配信
真田昌幸と信繁は織田信長と対面したのか?
●『加沢記』にみる昌幸の動き
『加沢記』という史料があります。沼田真田藩の家臣で、祐筆を務めた加沢平次左衛門によって江戸時代初めに書かれた手記で、真田幸隆、昌幸、信幸三代を利根・吾妻の興亡をからめて、小田原征伐までの49年間を記したものです。
軍記物の範疇に入れられる場合もありますが、戦場経験のない加沢が、古老の話や資料を集めて書いたと思われ、比較的記録性が高いと評価されています。
昌幸が織田に臣従するくだりについても、『加沢記』に記述がありますので、まず紹介してみましょう。
天正10年(1582)3月11日に武田勝頼が自刃、武田家は滅亡。この時、岩櫃城にいた真田昌幸は、実はすでに織田と対戦するために、越後の上杉景勝と、小田原の北条氏の双方に、臣従を前提とした援軍要請を行なっていました。
3月12日付で、武蔵鉢形城主の北条氏邦(北条氏政の弟)が昌幸に宛てた手紙が現存しており、そこには「北条方に臣従するのであれば、援軍を出そう」という内容が記されています。
この手紙について、かつては、勝頼が自刃する前に北条と連絡を取っている昌幸を、武田を裏切っていたと見るむきもありましたが、実際は武田に対する援軍を要請した昌幸への、北条方からの返事というのが妥当なところでしょう。
一方、武田滅亡後、織田方からも素早く昌幸にアプローチしてきます。それが信長の息子・信忠の重臣菅谷九右衛門尉からの書状で、そこには「今度勝頼公没落、信州一国残らず降参せしめ候ところに、貴方籠城まことに以て神妙の至り、信忠公はじめ御感に入」とありました。
つまり、昌幸の武田家に対する忠誠心を認めた上での丁寧な臣従要請であり、決して高圧的なものではなかったのです。
そして昌幸は3月15日、矢沢らとともに信州高遠に陣を構えていた織田信忠のもとに出仕しました。『加沢記』には、次のように記されます。
「昌幸公の始、矢沢、祢津、芦田、室賀、三月十五日高遠へ出仕し給て人質を被出ける、昌幸公も御娘子を、被渡ける、人々本領安堵無相違の旨、追而信長公の御證文可進とて信忠公何れもへ御盃を賜り帰城せられ厳重の御儀式也(以下略)」
大河ドラマ「真田丸」では、昌幸・信繁父子は諏訪の法華寺で織田信長と対面することになっていましたが、『加沢記』には高遠へ出仕し、信忠と対面して盃を賜ったとあります。
実際、信長自身は3月14日に浪合(長野県下伊那郡阿智村)で勝頼の首を実検したといわれますので、翌日、高遠で昌幸らに対面したとはやや考えにくいでしょう。
また信長が諏訪の法華寺に入るのは3月19日とされますので、昌幸が高遠ではなく、諏訪の織田陣営に出向いたとしても、3月15日の日付とは合いません。ですから、昌幸・信繁がドラマのように信長と対面した可能性は低いということになりそうです。
ただ、『加沢記』にある「昌幸公も御娘子を」人質に出したという件は、年齢的に考えるとドラマで描かれたように、長女の村松殿(ドラマの松)が一番合うかもしれません。
来源:http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160201-00000001-php_r-bus_all
2016年02月02日 10点02分 11
2016年02月03日 03点02分
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地铁公交都穿上了红色的家纹服,好喜庆啊[真棒][真棒]
2016年02月02日 10点02分 12
应该是会有很多游客去
2016年02月02日 12点02分
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【甲信越ある記】「信州上田真田丸大河ドラマ館」(上田市)
産経新聞 2月21日(日)7時55分配信
 ■“幸村の世界”を体
 NHKの美術のプロたちが3階建ての旧市民会館を活かして整備しただけのことはある。足を踏み入れて心揺さぶられたのは、立体感あふれる空間と、戦国を見事に演出するセットの美しさ、細やかな技術だった。
 「真田丸」放送に伴って主人公、真田信繁(幸村)の故郷である上田市に“全国唯一”の大河ドラマ館としてオープンした。堅調な視聴率と歩調を合わせ、14日には開館1カ月足らずで累計来場者数が3万人を突破した。徹頭徹尾苦戦を強いられた前作「花燃ゆ」のドラマ館(山口県防府市)の年間来場者数が6万人だったことから比べれば天地の差だ。
 「家族連れや若いカップルが目立っているのが特徴です。折りからの幸村人気、真田ブームを肌で感じています」とは唐沢信幸館長(64)だ。ドラマで使用された着物や小道具、台本などが展示され、「信繁の生きた時代」「上田城と真田家の家族」「宿敵家康と大阪の陣」「ドラマの裏側」-の4ゾーンに分けて真田丸の世界が体感できる。見学通路は城下町の街並みが再現されている。展示面積は650平方メートルに及び、過去のドラマ館を含めて最大級である。
 わけても信繁がドラマでまとう特注の赤い鎧兜(よろいかぶと)2両のうちの1両や、深さ3メートルの空堀、ロケ風景とメイキング映像を上映する真田丸シアター、25人の豪華キャストがメッセージをしたためたサイン入り色紙などに参観者は足を止める。ちなみに干支(えと)の申年と相まって土産物売り場での一番人気は、真田家の家紋「六文銭」をあしらった真紅のボクサーパンツ(1296円)だとか。
 ツアーで夫人と訪れたという宇都宮市の福田充さん(61)は興奮気味に話した。
 「実は真田丸を一度も観たことがなかったけど、ここに来て魅力にとりつかれました。これから日曜夜は欠かさず大河ドラマです」
 ストーリーの展開に伴って展示内容も進化し続けるというから楽しみだ。(高木桂一)
来源:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160221-00000000-san-l20
真田丸大河馆开馆一个月游客突破3万,去年花燃馆一年游客只6万。。。
2016年02月21日 02点02分 13
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赞!
2016年02月21日 10点02分 14
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「真田丸」出発進行 JR和歌山線にラッピング電車登場
THE PAGE 3月2日(水)10時22分配信
 現在放送中のNHK大河ドラマ「真田丸」。その舞台のひとつ、和歌山県九度山町の沿線を走るJR和歌山線に、この真田丸をデザインしたラッピング電車が1日、登場しJR橋本駅で出発式が行われた
[写真]「真田丸」主演の堺雅人がりりしい姿で電車に
六文銭もあちこちにデザイン
 今回登場したラッピング電車は2両1編成で、和歌山方の車両は青と赤、高田方の車両は赤と白を基調としたグラデーションに塗り分けられている。
 車体には「真田丸」で堺雅人が演じる主役・真田信繁(真田幸村)と、彼に所縁のある真田庵や真田宝物資料館、そして和歌山城や紀州東照宮といった紀州徳川家にちなんだスポットなどが大きく描かれ、インパクト大。真田家のシンボル・六文銭もあちこちにデザインされている。
[写真]真田丸電車が出発進行
今年12月末まで運行予定
 この日は橋本駅を出発する臨時列車でセレモニーが行われ、JR西日本和歌山支社の川井支社長は「九度山・高野山から和歌山へ”攻め込む”このラッピング電車で、沿線をもっと盛り上げていきたい」と挨拶。地元・九度山町の平木町長は「同じく沿線を走る南海電鉄高野線とも連携しながら、多くの観光客を
呼び込みたい」と話した。
 真田丸ラッピング電車は、JR和歌山線を中心に今年12月末まで運行予定。他の車両と共通運用のため、どの時刻に運転されるかは運次第だ。ちなみに南海電車でも、真田幸村にちなんだ「真田赤備え電車」を運行しており、本当に運が良い方は橋本駅で両列車の並ぶ姿が見られるかも?
来源:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160302-00000001-wordleafv-ent
这个网址有视频!有可帅可帅的视频!
2016年03月03日 01点03分 16
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<JR和歌山線>「幸村」列車発進 15日から大阪環状線も
毎日新聞 3月2日(水)13時12分配信
来源:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160302-00000053-mai-soci
只贴个图好了
2016年03月03日 01点03分 17
不是本人不幸福。。。
2016年03月03日 02点03分
@Panda_cjit 是本人的话站台还不挤爆了[哈哈]
2016年03月03日 07点03分
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「真田丸跡地でない」と判明した神社の宮司の意外な反応
「大河ドラマ『真田丸』(NHK)が始まって、参拝客が一気に増えましたね」──そう笑うのは大阪市天王寺区にある三光神社の小田禮五郎・宮司だ。三光神社は1614年の大坂冬の陣で豊臣方についた真田幸村(信繁)が20万ともいわれる徳川の大軍勢から大坂城を守るために築いた砦、いわゆる「真田丸」の跡地を謳っている。
 三谷幸喜・脚本で話題の『真田丸』の主人公・真田幸村(堺雅人)の終焉の地である大阪に、早くも観光客が集まっているのだ。
 三光神社の境内には、軍配を振りかざす真田幸村像がそびえ立ち、「真田丸跡」と書かれた顔ハメ看板や真っ赤なのぼりが並ぶ。
 ところが、である。最新の調査によるとこの神社は「真田丸跡地ではない」というのだ。調査した城郭研究家の千田嘉博・奈良大学学長はこういう。
「大坂冬の陣の後、真田丸は徹底的に破壊され、これまでは伝承をもとに“このあたりにあったのだろう”という推測しかなかった。今回、広島藩主浅野家の残した『浅野文庫諸国古城之図』などこれまで見過ごされてきた史料を精査し、さらに大阪文化財研究所などの協力を得て、地中レーダー探査を行ないました。
 その結果、これまで半円形だと伝えられてきた真田丸が、実際は巨大な四角形だったことがわかり、その位置も三光神社の周辺ではなく、数百m西側の大阪明星学園を中心にした一帯であったと判明しました」
 調査結果を受け、2月初旬には大阪明星学園前に真田丸顕彰碑が建立された。
「跡地ではない」と結論づけられたことを三光神社の小田宮司にぶつけた。すると意外な答えが返ってきた。
「まぁ、正確にどこに砦があったかというのは、うちとしては、どっちゃでもええんですよ(笑い)。ともかくこのへんにあったいうんは間違いないことですからね。こういう論争をしてもらったほうが、話題になるからありがたいですわ」
 そう語ってニヤリと笑った。ナニワらしい商魂たくましさだが、跡地じゃないのに「真田丸跡」を名乗るのは流石にマズい気が……。
 正しい跡地と判明したエリアには、真田幸村400回忌の2014年に幸村の墓が建立された心眼寺もある。観光客を奪い合う“大阪春の陣”はこれからが本番か。
※週刊ポスト2016年3月11日号
http://www.news-postseven.com/archives/20160303_389383.html
2016年03月03日 07点03分 18
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