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Oka_狼
楼主
ライトノベルのライトノベル性について
『BEATLESS』评
ライトノベルというものの本质について考えてみたい。もうずっと以前から私はライトノベルとは一体なんなのかを疑问に思い考えを巡らしてきた。ライトノベルの定义论というのは诸说あって、ライトノベルについて本格的に语ろうとする者は皆まず独自の定义を掲げねば话にならなくなっている。例えば一说には「ライトノベルレーベルから出ている小说がライトノベルだ」という定义もあるが、しかしこれだと西尾维新の『戯言シリーズ』はライトノベルではなくなってしまう。だが年刊の『このライトノベルがすごい!』(宝岛社)では同シリーズはその他の所谓ライトノベルレーベルから発刊された小说と同様にライトノベルとして扱われランキング付の対象となっており、しかもかなりの人気作として上位に食い込んでいる(2005~7)。また别の说では「マンガ风のイラストを挿絵に持つ小说がライトノベルだ」ともされることがあるが、他ならぬライトノベルレーベルがイラストを一枚も持たないライトノベルを発刊することもある。このようにどう定义してもライトノベルの定义は「ライトノベル」という漠然とした领域を取りこぼしてしまう。もちろんこういうことはどんなものを定义するにもあり得ることだ。问题は恐らくライトノベルの定义として読者间で広く了解を得られたものが存在しないということなのであろう。
ライトノベルの定义は、何故か形式的になされようとすることが多い。既に绍介したレーベル依存の定义やイラスト依存の定义もそうである。もちろん形式的に定义されるのが理想ではある。形式的な定义が成功すればライトノベルを他のものと取り违えたりする顿珍汉な振る舞いがぐっと减るだろう。「ココがこうなってるのがラノベだよ」と、あたかも大幸薬品の正露丸を类似品と间违えないためにはラッパのマークを探せば良いということを教えるかのように、ライトノベル初心者にも教えることができたならばものすごく便利なことには违いない。しかしそれは无理なのだ。じゃあなぜ无理なのか、という问题について答えることがこの文章の目的の一つでもある。というか、その理由が明白にわかったらライトノベルそのものの定义もできているはずである。もちろん私のような矮小な人间が学术的にライトノベルを研究している人を差し置いてそのような立派な定义を下せるとは思っていない。ただそれを目指すこと自体は悪いことではないというか、ライトノベルについて知ろうと思うのであればちょっとでも现実のライトノベルの范囲と近い定义をすべく努力すべきであると思っている。
ところで、ライトノベルの初心者にラッパのマークの正露丸よろしくライトノベルの特徴を教えられたら便利であるとは书いたが、逆の场合を考えてみると、ライトノベル中级以上の読者达はどの作品がライトノベルでどの作品がそうでないかということを感覚的に见误ることはまずない。ラノベレーベルから出てる小说がラノベなのは当然のことながら、例えば讲谈社BOXとか星海社fictionsとかのレーベルから出てる小说が、确かにラノベではあるがなんか违うっぽいところや、森博嗣とか京极夏彦とかの小说が、ミステリではあるものの何だかラノベに近い香りを漂わせていることなどは、なんとなくわかるようになってくる。こういう、中级以上のラノベ読者达の间で共有されている感覚に、ラノベの本质を知るに当たってヒントとなるような要素が隠れていないだろうか。レーベルがどうのとかイラストがどうのとかキャラクターがどうのとかいう形式ではなくて、言わばライトノベルの内容そのものがライトノベルの本质を语っているということはないだろうか。などということを私は思っていて、それを以下の文章で语ってみたいと考えている。
まず最初に、ライトノベルの形式ではなくて内容からライトノベルの特徴を语った言叶として私がいつも重要だと思っている文章の引用から始めてみたいと思う。
ライトノベルの多くは、主要登场人物を取りまく环境が难易度イージーに设定されていることが多い。主人公やヒロインが破天荒なふるまいをしても、周囲の人々が优しく受け入れてくれる。これは作风をポップにするための手法で、よほど意図がない限り外すべきではない部分だ。これがノーマルモードになってくると、主人公やヒロインがあまり特别扱いされなくなり、わりと社会の悪意にさらされやすくなってくる。人间関系の世知辛い部分も出てくる。つらいことも多い。ライトノベル界には「娯楽作品の中くらい楽しい気分にひたりたい」というイージー志向の読者が多いだろうから、难易度ノーマルはなかなかリスキーな选択となる。だがノーマルでないと表现できない物语もあるから、どちらが正解とは断定できない。
これは荒川工の『ワールズエンド・ガールフレンド』(ガガガ文库)の巻末解说としてライトノベル作家・ゲームシナリオライターの田中ロミオが寄せた文章の一部である。注目したいのは「主要登场人物を取りまく环境が难易度イージー」という部分と、「主人公やヒロインが破天荒なふるまいを」するという部分と、「ライトノベル界には……イージー志向の読者が多い」という部分である。これを読んで、さすが田中ロミオは上手いこと言うな、と思った人もいるんではないだろうか。确かにライトノベルの多くは破天荒な振る舞いをするキャラクター达に彩られている。そしてライトノベルの物语の世界観は、たいていその破天荒さを许容する。现実世界であれば出る杭は打たれるべきところが、ライトノベルの中ではさして问题にならない。せいぜいギャグに升华される程度である。こうした升华が「作风をポップにするための手法」なのだろう。で、読者达もそれを望んでいる。主人公たちのわがままな行动を否定しない世界観を楽しんでいる。
こうして书いてみると、ライトノベルはキャラクター小说というよりも环境の小说なのかもしれないと思えてくる。
あるいはより正确に言うならば、破天荒なキャラクターと、その破天荒さを否定しない环境との関系性こそがライトノベルの本质なのではないか、と仮定してみることも可能だ。
ところで、环境と言えば思い出すのは东浩纪の『动物化するポストモダン』(讲谈社现代新书)である。この本では、动物と人间という概念が非常に重要なのだが、现代のオタクというのは(昔のオタクと违って)动物化した人间の典型例だ、と东は言っている。つまり「オタク=动物」という前提でもって以下の引用文を読んで顶ければ、既に引用した田中ロミオの意见に関系して何かしら発见があるはずである。
コジェーヴは、戦后のアメリカで台头してきた消费者の姿を「动物」と呼ぶ。このような强い表现が使われるのは、ヘーゲル哲学独特の「人间」の规定と関系している。ヘーゲルによれば(より正确にはコジェーヴが解釈するヘーゲルによれば)、ホモ・サピエンスはそのままで人间的なわけではない。人间が人间的であるためには、与えられた环境を否定する行动がなければならない。言い换えれば、自然との闘争がなければならない。
対して动物は、つねに自然と调和して生きている。したがって、消费者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく戦后アメリカの消费社会は、彼の用语では、人间的というよりもむしろ「动物的」と呼ばれることになる。そこには饥えも争いもないが、かわりに哲学もない。「歴史の终わりのあと、人间は彼らの记念碑や桥やトンネルを建设するとしても、それは鸟が巣を作り蜘蛛が蜘蛛の巣を张るようなものであり、蛙や蝉のようにコンサートを开き、子供の动物が游ぶように游び、大人の獣がするように性欲を発散するようなものであろう」と、コジェーヴは苛立たしげに记している。
どうだろうか。「人间が人间的であるにためには、与えられた环境を否定する行动がなければならない」つまり、环境と戦っていかなければならないわけだ。それをしてこそ人间だと呼べるわけだ。确かにこれは感覚的に纳得できる话ではある。人间が自然にあるもののみで満足して暮らしていたならば、およそ文明と呼ばれうるようなものは何一つ発展しなかっただろう。畑を耕したり服を着たり冠婚葬祭で泣き笑いなどしているのは色々いる生き物の中で人间くらいのもんである。
で、「主要登场人物を取りまく环境が难易度イージーに设定されている」ライトノベルのほうはどうだろうか。主要登场人物が破天荒でわがままな振る舞いをしてもやさしーく受け止めてくれる楽园のような世界に生きているキャラクター达は、果たして人间だと言えるだろうか。少なくともヘーゲル=コジェーヴ的な基准に照らしてみれば明らかに动物なのである。しかも人気ラノベ作家である田中ロミオが自ら语ったラノベの特徴がこれなのだ。それだけでなく同时に「イージー志向の読者が多い」とまで言っちゃっている。これじゃあまるでラノベを世に送り出す侧からして「ラノベ読者は动物みたいなもん」と考えていることを公言しているかのようだ。
まあ确かに「JSが俺を取り合って大変なことになっています」だの「谁もが恐れるあの委员长が、ぼくの専属メイドになるようです。」だの「反抗期の妹を魔王の力で支配してみた」だの「お兄ちゃんだけど爱さえあれば関系ないよねっ」だの「俺が彼女に迫られて、妹が怒ってる?」だのと言ったタイトル(2ちゃんの过去ログを参考にさせて顶きました)を见てみれば、そりゃあ动物よばわりされても仕方ないわいな、という気持ちになる。もうタイトルだけでおなかいっぱいというか、読む気にならないというか、イライラするというか、私が参考にした过去ログのスレタイからして「ラノベのタイトル一覧がひどい マジで吐き気がする いつからこんな酷くなった………」とか言っている。もちろん中身を読んでみれば思ったよりも酷くない小说もあったりする。けれども読んでみてやっぱり动物向けだった……と落胆するような小说のほうが、私の経験では格段に多い。
でも、だからといってそれがラノベの本质とまで言えるだろうか、と问うてみれば、やはりそうとも言い切れないのではないか、というよりも、ライトノベルの名作として名前が残っている过去のライトノベルのことを思い返してみると、むしろ逆に动物感あふれるライトノベル界から头一个抜けようと努力しているような、言い换えれば环境(=ラノベ界)と戦おうと(=头一个抜けようと)しているラノベのほうが名を残している。
私の个人的嗜好で恐缩だが、パッと思いつくまま具体的に例を挙げてみるならば、まずは『クリス・クロス』があり、『ブギーポップ』があり、『フルメタ』があり、『マリみて』があり、『ハルヒ』があり、そして近年では『アクセル・ワールド』がある。これらはいずれも各々违う特徴を持ったライトノベルであり、决して十把一络げに扱うことのできない作品であるが、しかしいずれも名作であり、そしていずれもラノベ外的なものを取り入れているという特徴がある。『クリス・クロス』は、これは有名な话だが一般エンタメ小说である冈嶋二人の『クラインの壶』(新潮文库)からネタを拝借していると思しいし、『ブギーポップ』や『ハルヒ』の作者はともにかなりのSFファンであるらしく、それが作风にも色浓く渗み出ているし、『フルメタ』はタイトルからしてラノベの外へと意识が开かれているのは明らかだし、『マリみて』はまあ违うマーケットに何故か飞び火しただけと言えなくもないのだが、しかし结果的には男性オタク読者にとっては外部的な要素を提示してくれてかつ面白く読まれる必然性を备えたラノベだったと言わねばならないだろう。そして『アクセル・ワールド』はオンライン小说という、これまた読者层が微妙にライトノベル読者层とは违うところに出自を持つ小说である。また、物语开始时点において主人公を取り巻く环境がこれほどハードなラノベも珍しい。何しろ主人公のハルユキはデブでオタクでいじめられっ子なのだ。もっとシュッとした奴を主人公にしろよ……などと考える间もなく、読者は物语に引き込まれてしまう。デブでオタクでいじめられっ子、という要素すべてがこの小说にとって面白さのカギとなっていて、「俺はラノベ太郎。どこにでもいる平凡な高校生だ。でも何故か美少女が次々と押しかけてきて困っている。俺の平和な毎日は一体いつ帰ってくるんだ!?(俺は钝感なので自分がモテモテなことに気付いていない)」というような凡百の金太郎饴的ラノベを完全に超克してしまっている。
つまり、田中ロミオが言うような「多くのライトノベル」的であること(=动物の読み物であること)と、ライトノベルの名作となる条件とでは、何かが根本的に违うのである。もっと言えば、ライトノベルの名作とは、ライトノベルの固定観念それ自体と戦うことによってこそ生まれるのではないか、という疑念がここに生じるわけだ。
そこでいささか唐突だが、ここから长谷敏司の作品を用いてライトノベルのライトノベル性が一体どのように存在しているのかを考えてみることにする。何故长谷敏司なのかというと、最近『BEATLESS』というラノベとSFの境界线上にあるような作品が刊行されて今回のテーマの参考になると思われるし、そもそもこの作家自体がラノベに出自を持ちながらSFで有名になったというやや珍しい経歴を持っているからである。つまりラノベもSFも両方书いている作家なのだ。じゃあ长谷敏司とはライトノベルとSFを自在に书き分けることのできる作家なのかというと……まあ私の実感としては全く逆で、彼の书いたラノベは全くラノベっぽくないというか、少なくとも动物の読み物ではない。でもラノベにおける代表作である『円环少女』シリーズ(角川スニーカー文库)は13巻も続いた、人気シリーズと十分呼べる作品である。そこで私が考えたのは、ラノベを书くに当たってことさらラノベを意识する必要が本当にあるのか? という问题である。确かに美少女は大事だろう。破天荒なキャラクターも重要だ。主人公の少年がモテまくるのももはや当然の定石である。しかしもっと大事なのはそれらの要素が実际にどう机能しているのかということではないのか。美少女や、破天荒さや、物语のパターンなどが、ライトノベルとして动物的に运用されず、何か别ジャンルの小说ででもあるかのように人间的に运用されても、それはそれでライトノベルとして読まれ得て13巻もの巻数を重ねることができるのではないだろうか、ということを考えたのだ。
ではまず彼のデビュー作である『戦略拠点32098楽园』(角川スニーカー文库)から见ていくことにしよう。ちなみにここから先はネタバレへの配虑は全くしないので、嫌な人は各作品を読んでからにしたほうが良いかもしれない。で、『楽园』だが、この小说はラノベにしては珍しく、作品论として作中にあるメタファーを色々読み解いていくことを楽しむことができる小说である。というか、それをやらないとこの小说のどこが面白いのか多分わからないだろう。そういう意味でラノベに期待されているラノベ的な要素とでも言おうか、つまりは动物的な要素は薄い。ではどういう部分がメタファー解読的に面白いのか。この小说はタイトル通りの「楽园」という星に一人の男がやってくるところからはじまる。「楽园」には机械の体をした男と、少女が一人住んでいて、穏やかな日々をすごしていて、あとからやってきたほうの男も段々その生活になじんでいく。でもその星の外では现在も二大国が戦争中で、作中において「楽园」で共同生活をする男二人も実は敌同士なのだが、别に杀し合いに発展することもなく、というか友达にまでなっちゃったりする。「楽园」には自然に食べ物が木に生ったりしていて住むのに适した环境が整っている。毎日少女たちは外に生えてる食べ物をとってきて食べて暮らしている。つまりヘーゲル=コジェーヴ的な动物として生きることがナチュラルにできてしまう环境なわけだ。なぜならその环境と戦わなくても生きていけるから。人间的に生きるのであれば地面を耕したりという泥臭い労働が必要なはずだ。そういうものから少女达は免除されている。でも话が进むうちに「楽园」の中にずっと安住しているわけにはいかないことが段々わかってくる。楽しく暮らしているはずの少女は実は人造人间で一定时间たつと记忆がリセットされるように设计されていて当然成长もせず延々と子供の姿のまま生き続ける存在であることが判明するし、この「楽园」は墓场であって戦死者が送り込まれるところであるらしいということもわかる。まあ言うまでもないとは思うが、この「楽园」をラノベそのものとして読んでみると、この小说がなかなか重要なことを书いているように読めてくる。物语冒头で落っこちてきた男のほうは、この「楽园」が戦略上重要ではないことを军队に报告することによって「楽园」が戦闘に巻き込まれないようにして守るため、という理由と同时に、戦争の中で死んでいった仲间达や自分に课されていた责任に报いるために、ついには「楽园」を出て行く。対してもう一方の男は「楽园」に残って、成长もしなければ记忆すら残らない少女を守ることにする。自分の所属していた军への责务を放弃した形である。军っていうのが社会だとか厳しい现実だとかいうものを隠喩として表现しているのは明らかで、これは田中ロミオの言叶で言えば「楽园」がイージーモードの世界であるのに対して「ノーマルモード」の世界ということになろう。
この二人の选択がどういうことを意味しているのか考えてみると、色々と兴味深い。まず、まがりなりにもライトノベルの老舗レーベルから刊行されているにもかかわらず、作中の「楽园」をライトノベルそのものとして読み替えてみると、この小说がライトノベルをかなり空虚かつグロテスクなものとして描いていることがわかるであろう。その空虚さグロテスクさはひとえに成长というものから全く疎外されている少女の设定に仮托されている。つまりラノベなんていう动物の読み物を読んでるうちは何も発展性ねーぞ、と作者が言っているかのように読めるわけだ。その上で、二人の男は対照的とも言える行动を各々とって、一人は「楽园」を抜け出し、一人は「楽园」に残ることにする。だがその动机には共通する部分がある。二人とも「楽园」と少女を守るためにそうしたのである。「楽园」に残るほうの男がそういう动机を持っているのは当たり前のことだが、「楽园」を抜け出して、いわば「成长」のある世界を目指したほうの男までも、成长のない「楽园」(=ラノベ界)を守るためにそうしたというのがいささか逆说的だ。
もちろんそういう読み方が実は作者の意図に反している、という可能性もある。だが、美少女とのまったりした日常を送るための舞台となっている「楽园」が典型的なライトノベル的世界観を全く连想させないというほうが无理がある。作者の意図がどうであれ、そういう読み方ができてしまう、あるいはどうしてもそう読めてしまう文脉が今のライトノベル界には存在しているのだ。そして、美少女に対置される、ヒロインと対になり得る男性侧のキャラクターが通常のライトノベルと违って二人に分裂しているところも何やら意味深である。二人の位置づけは、「楽园」=「ライトノベル界」を出て「成长」を目指す人と、「楽园」=「ライトノベル界」に留まり「成长」无き世界に甘んじる人、という风に分けることができる。これまで缕々述べてきた私の问题意识に引き付けて言えば、前者は人间的なラノベ読者、后者は动物的なラノベ読者にそれぞれ対応するとして、とりあえずはそれほど间违ってはいないだろう。そのことの是非とか、どっちの立场をとるのが良いとか、そういうことを言うつもりは私には无いというか、あまりそっちのほうには兴味がない。ただ重要だと思うのは、そうした分裂した立场が『楽园』という作品、ひいては长谷敏司という作家自身に同时并行的に胚胎しているという风に読めるということなのだ。
2014年01月27日 13点01分
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『BEATLESS』评
ライトノベルというものの本质について考えてみたい。もうずっと以前から私はライトノベルとは一体なんなのかを疑问に思い考えを巡らしてきた。ライトノベルの定义论というのは诸说あって、ライトノベルについて本格的に语ろうとする者は皆まず独自の定义を掲げねば话にならなくなっている。例えば一说には「ライトノベルレーベルから出ている小说がライトノベルだ」という定义もあるが、しかしこれだと西尾维新の『戯言シリーズ』はライトノベルではなくなってしまう。だが年刊の『このライトノベルがすごい!』(宝岛社)では同シリーズはその他の所谓ライトノベルレーベルから発刊された小说と同様にライトノベルとして扱われランキング付の対象となっており、しかもかなりの人気作として上位に食い込んでいる(2005~7)。また别の说では「マンガ风のイラストを挿絵に持つ小说がライトノベルだ」ともされることがあるが、他ならぬライトノベルレーベルがイラストを一枚も持たないライトノベルを発刊することもある。このようにどう定义してもライトノベルの定义は「ライトノベル」という漠然とした领域を取りこぼしてしまう。もちろんこういうことはどんなものを定义するにもあり得ることだ。问题は恐らくライトノベルの定义として読者间で広く了解を得られたものが存在しないということなのであろう。
ライトノベルの定义は、何故か形式的になされようとすることが多い。既に绍介したレーベル依存の定义やイラスト依存の定义もそうである。もちろん形式的に定义されるのが理想ではある。形式的な定义が成功すればライトノベルを他のものと取り违えたりする顿珍汉な振る舞いがぐっと减るだろう。「ココがこうなってるのがラノベだよ」と、あたかも大幸薬品の正露丸を类似品と间违えないためにはラッパのマークを探せば良いということを教えるかのように、ライトノベル初心者にも教えることができたならばものすごく便利なことには违いない。しかしそれは无理なのだ。じゃあなぜ无理なのか、という问题について答えることがこの文章の目的の一つでもある。というか、その理由が明白にわかったらライトノベルそのものの定义もできているはずである。もちろん私のような矮小な人间が学术的にライトノベルを研究している人を差し置いてそのような立派な定义を下せるとは思っていない。ただそれを目指すこと自体は悪いことではないというか、ライトノベルについて知ろうと思うのであればちょっとでも现実のライトノベルの范囲と近い定义をすべく努力すべきであると思っている。
ところで、ライトノベルの初心者にラッパのマークの正露丸よろしくライトノベルの特徴を教えられたら便利であるとは书いたが、逆の场合を考えてみると、ライトノベル中级以上の読者达はどの作品がライトノベルでどの作品がそうでないかということを感覚的に见误ることはまずない。ラノベレーベルから出てる小说がラノベなのは当然のことながら、例えば讲谈社BOXとか星海社fictionsとかのレーベルから出てる小说が、确かにラノベではあるがなんか违うっぽいところや、森博嗣とか京极夏彦とかの小说が、ミステリではあるものの何だかラノベに近い香りを漂わせていることなどは、なんとなくわかるようになってくる。こういう、中级以上のラノベ読者达の间で共有されている感覚に、ラノベの本质を知るに当たってヒントとなるような要素が隠れていないだろうか。レーベルがどうのとかイラストがどうのとかキャラクターがどうのとかいう形式ではなくて、言わばライトノベルの内容そのものがライトノベルの本质を语っているということはないだろうか。などということを私は思っていて、それを以下の文章で语ってみたいと考えている。
まず最初に、ライトノベルの形式ではなくて内容からライトノベルの特徴を语った言叶として私がいつも重要だと思っている文章の引用から始めてみたいと思う。
ライトノベルの多くは、主要登场人物を取りまく环境が难易度イージーに设定されていることが多い。主人公やヒロインが破天荒なふるまいをしても、周囲の人々が优しく受け入れてくれる。これは作风をポップにするための手法で、よほど意図がない限り外すべきではない部分だ。これがノーマルモードになってくると、主人公やヒロインがあまり特别扱いされなくなり、わりと社会の悪意にさらされやすくなってくる。人间関系の世知辛い部分も出てくる。つらいことも多い。ライトノベル界には「娯楽作品の中くらい楽しい気分にひたりたい」というイージー志向の読者が多いだろうから、难易度ノーマルはなかなかリスキーな选択となる。だがノーマルでないと表现できない物语もあるから、どちらが正解とは断定できない。
これは荒川工の『ワールズエンド・ガールフレンド』(ガガガ文库)の巻末解说としてライトノベル作家・ゲームシナリオライターの田中ロミオが寄せた文章の一部である。注目したいのは「主要登场人物を取りまく环境が难易度イージー」という部分と、「主人公やヒロインが破天荒なふるまいを」するという部分と、「ライトノベル界には……イージー志向の読者が多い」という部分である。これを読んで、さすが田中ロミオは上手いこと言うな、と思った人もいるんではないだろうか。确かにライトノベルの多くは破天荒な振る舞いをするキャラクター达に彩られている。そしてライトノベルの物语の世界観は、たいていその破天荒さを许容する。现実世界であれば出る杭は打たれるべきところが、ライトノベルの中ではさして问题にならない。せいぜいギャグに升华される程度である。こうした升华が「作风をポップにするための手法」なのだろう。で、読者达もそれを望んでいる。主人公たちのわがままな行动を否定しない世界観を楽しんでいる。
こうして书いてみると、ライトノベルはキャラクター小说というよりも环境の小说なのかもしれないと思えてくる。
あるいはより正确に言うならば、破天荒なキャラクターと、その破天荒さを否定しない环境との関系性こそがライトノベルの本质なのではないか、と仮定してみることも可能だ。
ところで、环境と言えば思い出すのは东浩纪の『动物化するポストモダン』(讲谈社现代新书)である。この本では、动物と人间という概念が非常に重要なのだが、现代のオタクというのは(昔のオタクと违って)动物化した人间の典型例だ、と东は言っている。つまり「オタク=动物」という前提でもって以下の引用文を読んで顶ければ、既に引用した田中ロミオの意见に関系して何かしら発见があるはずである。
コジェーヴは、戦后のアメリカで台头してきた消费者の姿を「动物」と呼ぶ。このような强い表现が使われるのは、ヘーゲル哲学独特の「人间」の规定と関系している。ヘーゲルによれば(より正确にはコジェーヴが解釈するヘーゲルによれば)、ホモ・サピエンスはそのままで人间的なわけではない。人间が人间的であるためには、与えられた环境を否定する行动がなければならない。言い换えれば、自然との闘争がなければならない。
対して动物は、つねに自然と调和して生きている。したがって、消费者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく戦后アメリカの消费社会は、彼の用语では、人间的というよりもむしろ「动物的」と呼ばれることになる。そこには饥えも争いもないが、かわりに哲学もない。「歴史の终わりのあと、人间は彼らの记念碑や桥やトンネルを建设するとしても、それは鸟が巣を作り蜘蛛が蜘蛛の巣を张るようなものであり、蛙や蝉のようにコンサートを开き、子供の动物が游ぶように游び、大人の獣がするように性欲を発散するようなものであろう」と、コジェーヴは苛立たしげに记している。
どうだろうか。「人间が人间的であるにためには、与えられた环境を否定する行动がなければならない」つまり、环境と戦っていかなければならないわけだ。それをしてこそ人间だと呼べるわけだ。确かにこれは感覚的に纳得できる话ではある。人间が自然にあるもののみで満足して暮らしていたならば、およそ文明と呼ばれうるようなものは何一つ発展しなかっただろう。畑を耕したり服を着たり冠婚葬祭で泣き笑いなどしているのは色々いる生き物の中で人间くらいのもんである。
で、「主要登场人物を取りまく环境が难易度イージーに设定されている」ライトノベルのほうはどうだろうか。主要登场人物が破天荒でわがままな振る舞いをしてもやさしーく受け止めてくれる楽园のような世界に生きているキャラクター达は、果たして人间だと言えるだろうか。少なくともヘーゲル=コジェーヴ的な基准に照らしてみれば明らかに动物なのである。しかも人気ラノベ作家である田中ロミオが自ら语ったラノベの特徴がこれなのだ。それだけでなく同时に「イージー志向の読者が多い」とまで言っちゃっている。これじゃあまるでラノベを世に送り出す侧からして「ラノベ読者は动物みたいなもん」と考えていることを公言しているかのようだ。
まあ确かに「JSが俺を取り合って大変なことになっています」だの「谁もが恐れるあの委员长が、ぼくの専属メイドになるようです。」だの「反抗期の妹を魔王の力で支配してみた」だの「お兄ちゃんだけど爱さえあれば関系ないよねっ」だの「俺が彼女に迫られて、妹が怒ってる?」だのと言ったタイトル(2ちゃんの过去ログを参考にさせて顶きました)を见てみれば、そりゃあ动物よばわりされても仕方ないわいな、という気持ちになる。もうタイトルだけでおなかいっぱいというか、読む気にならないというか、イライラするというか、私が参考にした过去ログのスレタイからして「ラノベのタイトル一覧がひどい マジで吐き気がする いつからこんな酷くなった………」とか言っている。もちろん中身を読んでみれば思ったよりも酷くない小说もあったりする。けれども読んでみてやっぱり动物向けだった……と落胆するような小说のほうが、私の経験では格段に多い。
でも、だからといってそれがラノベの本质とまで言えるだろうか、と问うてみれば、やはりそうとも言い切れないのではないか、というよりも、ライトノベルの名作として名前が残っている过去のライトノベルのことを思い返してみると、むしろ逆に动物感あふれるライトノベル界から头一个抜けようと努力しているような、言い换えれば环境(=ラノベ界)と戦おうと(=头一个抜けようと)しているラノベのほうが名を残している。
私の个人的嗜好で恐缩だが、パッと思いつくまま具体的に例を挙げてみるならば、まずは『クリス・クロス』があり、『ブギーポップ』があり、『フルメタ』があり、『マリみて』があり、『ハルヒ』があり、そして近年では『アクセル・ワールド』がある。これらはいずれも各々违う特徴を持ったライトノベルであり、决して十把一络げに扱うことのできない作品であるが、しかしいずれも名作であり、そしていずれもラノベ外的なものを取り入れているという特徴がある。『クリス・クロス』は、これは有名な话だが一般エンタメ小说である冈嶋二人の『クラインの壶』(新潮文库)からネタを拝借していると思しいし、『ブギーポップ』や『ハルヒ』の作者はともにかなりのSFファンであるらしく、それが作风にも色浓く渗み出ているし、『フルメタ』はタイトルからしてラノベの外へと意识が开かれているのは明らかだし、『マリみて』はまあ违うマーケットに何故か飞び火しただけと言えなくもないのだが、しかし结果的には男性オタク読者にとっては外部的な要素を提示してくれてかつ面白く読まれる必然性を备えたラノベだったと言わねばならないだろう。そして『アクセル・ワールド』はオンライン小说という、これまた読者层が微妙にライトノベル読者层とは违うところに出自を持つ小说である。また、物语开始时点において主人公を取り巻く环境がこれほどハードなラノベも珍しい。何しろ主人公のハルユキはデブでオタクでいじめられっ子なのだ。もっとシュッとした奴を主人公にしろよ……などと考える间もなく、読者は物语に引き込まれてしまう。デブでオタクでいじめられっ子、という要素すべてがこの小说にとって面白さのカギとなっていて、「俺はラノベ太郎。どこにでもいる平凡な高校生だ。でも何故か美少女が次々と押しかけてきて困っている。俺の平和な毎日は一体いつ帰ってくるんだ!?(俺は钝感なので自分がモテモテなことに気付いていない)」というような凡百の金太郎饴的ラノベを完全に超克してしまっている。
つまり、田中ロミオが言うような「多くのライトノベル」的であること(=动物の読み物であること)と、ライトノベルの名作となる条件とでは、何かが根本的に违うのである。もっと言えば、ライトノベルの名作とは、ライトノベルの固定観念それ自体と戦うことによってこそ生まれるのではないか、という疑念がここに生じるわけだ。
そこでいささか唐突だが、ここから长谷敏司の作品を用いてライトノベルのライトノベル性が一体どのように存在しているのかを考えてみることにする。何故长谷敏司なのかというと、最近『BEATLESS』というラノベとSFの境界线上にあるような作品が刊行されて今回のテーマの参考になると思われるし、そもそもこの作家自体がラノベに出自を持ちながらSFで有名になったというやや珍しい経歴を持っているからである。つまりラノベもSFも両方书いている作家なのだ。じゃあ长谷敏司とはライトノベルとSFを自在に书き分けることのできる作家なのかというと……まあ私の実感としては全く逆で、彼の书いたラノベは全くラノベっぽくないというか、少なくとも动物の読み物ではない。でもラノベにおける代表作である『円环少女』シリーズ(角川スニーカー文库)は13巻も続いた、人気シリーズと十分呼べる作品である。そこで私が考えたのは、ラノベを书くに当たってことさらラノベを意识する必要が本当にあるのか? という问题である。确かに美少女は大事だろう。破天荒なキャラクターも重要だ。主人公の少年がモテまくるのももはや当然の定石である。しかしもっと大事なのはそれらの要素が実际にどう机能しているのかということではないのか。美少女や、破天荒さや、物语のパターンなどが、ライトノベルとして动物的に运用されず、何か别ジャンルの小说ででもあるかのように人间的に运用されても、それはそれでライトノベルとして読まれ得て13巻もの巻数を重ねることができるのではないだろうか、ということを考えたのだ。
ではまず彼のデビュー作である『戦略拠点32098楽园』(角川スニーカー文库)から见ていくことにしよう。ちなみにここから先はネタバレへの配虑は全くしないので、嫌な人は各作品を読んでからにしたほうが良いかもしれない。で、『楽园』だが、この小说はラノベにしては珍しく、作品论として作中にあるメタファーを色々読み解いていくことを楽しむことができる小说である。というか、それをやらないとこの小说のどこが面白いのか多分わからないだろう。そういう意味でラノベに期待されているラノベ的な要素とでも言おうか、つまりは动物的な要素は薄い。ではどういう部分がメタファー解読的に面白いのか。この小说はタイトル通りの「楽园」という星に一人の男がやってくるところからはじまる。「楽园」には机械の体をした男と、少女が一人住んでいて、穏やかな日々をすごしていて、あとからやってきたほうの男も段々その生活になじんでいく。でもその星の外では现在も二大国が戦争中で、作中において「楽园」で共同生活をする男二人も実は敌同士なのだが、别に杀し合いに発展することもなく、というか友达にまでなっちゃったりする。「楽园」には自然に食べ物が木に生ったりしていて住むのに适した环境が整っている。毎日少女たちは外に生えてる食べ物をとってきて食べて暮らしている。つまりヘーゲル=コジェーヴ的な动物として生きることがナチュラルにできてしまう环境なわけだ。なぜならその环境と戦わなくても生きていけるから。人间的に生きるのであれば地面を耕したりという泥臭い労働が必要なはずだ。そういうものから少女达は免除されている。でも话が进むうちに「楽园」の中にずっと安住しているわけにはいかないことが段々わかってくる。楽しく暮らしているはずの少女は実は人造人间で一定时间たつと记忆がリセットされるように设计されていて当然成长もせず延々と子供の姿のまま生き続ける存在であることが判明するし、この「楽园」は墓场であって戦死者が送り込まれるところであるらしいということもわかる。まあ言うまでもないとは思うが、この「楽园」をラノベそのものとして読んでみると、この小说がなかなか重要なことを书いているように読めてくる。物语冒头で落っこちてきた男のほうは、この「楽园」が戦略上重要ではないことを军队に报告することによって「楽园」が戦闘に巻き込まれないようにして守るため、という理由と同时に、戦争の中で死んでいった仲间达や自分に课されていた责任に报いるために、ついには「楽园」を出て行く。対してもう一方の男は「楽园」に残って、成长もしなければ记忆すら残らない少女を守ることにする。自分の所属していた军への责务を放弃した形である。军っていうのが社会だとか厳しい现実だとかいうものを隠喩として表现しているのは明らかで、これは田中ロミオの言叶で言えば「楽园」がイージーモードの世界であるのに対して「ノーマルモード」の世界ということになろう。
この二人の选択がどういうことを意味しているのか考えてみると、色々と兴味深い。まず、まがりなりにもライトノベルの老舗レーベルから刊行されているにもかかわらず、作中の「楽园」をライトノベルそのものとして読み替えてみると、この小说がライトノベルをかなり空虚かつグロテスクなものとして描いていることがわかるであろう。その空虚さグロテスクさはひとえに成长というものから全く疎外されている少女の设定に仮托されている。つまりラノベなんていう动物の読み物を読んでるうちは何も発展性ねーぞ、と作者が言っているかのように読めるわけだ。その上で、二人の男は対照的とも言える行动を各々とって、一人は「楽园」を抜け出し、一人は「楽园」に残ることにする。だがその动机には共通する部分がある。二人とも「楽园」と少女を守るためにそうしたのである。「楽园」に残るほうの男がそういう动机を持っているのは当たり前のことだが、「楽园」を抜け出して、いわば「成长」のある世界を目指したほうの男までも、成长のない「楽园」(=ラノベ界)を守るためにそうしたというのがいささか逆说的だ。
もちろんそういう読み方が実は作者の意図に反している、という可能性もある。だが、美少女とのまったりした日常を送るための舞台となっている「楽园」が典型的なライトノベル的世界観を全く连想させないというほうが无理がある。作者の意図がどうであれ、そういう読み方ができてしまう、あるいはどうしてもそう読めてしまう文脉が今のライトノベル界には存在しているのだ。そして、美少女に対置される、ヒロインと対になり得る男性侧のキャラクターが通常のライトノベルと违って二人に分裂しているところも何やら意味深である。二人の位置づけは、「楽园」=「ライトノベル界」を出て「成长」を目指す人と、「楽园」=「ライトノベル界」に留まり「成长」无き世界に甘んじる人、という风に分けることができる。これまで缕々述べてきた私の问题意识に引き付けて言えば、前者は人间的なラノベ読者、后者は动物的なラノベ読者にそれぞれ対応するとして、とりあえずはそれほど间违ってはいないだろう。そのことの是非とか、どっちの立场をとるのが良いとか、そういうことを言うつもりは私には无いというか、あまりそっちのほうには兴味がない。ただ重要だと思うのは、そうした分裂した立场が『楽园』という作品、ひいては长谷敏司という作家自身に同时并行的に胚胎しているという风に読めるということなのだ。