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芭蕉布
夏のきものの一つに芭蕉布がある。芭蕉と言えば何を连想するだろうか。夏を代表する高山植物、水芭蕉を思い浮かべる人もいるかも知れない。また、多くの人が俳人松尾芭蕉を连想するのではないだろうか。松尾芭蕉の俳号「芭蕉」とは一体何から来ているのだろう。
「芭蕉」は植物の名前である、というのは谁でも知っているだろう。それでは芭蕉とはどんな植物なのかと问えば、正确に答えられる人は少ない。芭蕉は水芭蕉であると思う人もいるかも知れないが、それは否である。水芭蕉は清水流れる高山に自生していることから、「清水に生える芭蕉のような植物」という意味で芭蕉の名を借りている。水芭蕉は本家の芭蕉とは全く别物である。
英语で芭蕉を『Japanese
Banana』という。実は芭蕉とはバナナのことである。芭蕉イコールバナナというイメージがピンとこないので、松尾芭蕉とバナナはうまくつながらない。そのバナナの木で造ったのが芭蕉布である。
芭蕉は冲縄や南九州に自生している。しかし、芭蕉布が织られている冲縄产のバナナと言うのは余り闻いた事がない。実は、芭蕉布に用いられる芭蕉の木はバナナの木に违いないが、食べるバナナとは种类が违う。食べるバナナの実がなるのは実芭蕉と呼ばれている。他に花芭蕉、糸芭蕉があり、芭蕉布の糸を采るのは文字通り、この糸芭蕉である。
糸芭蕉は仏教とも系りが有り、寺院にも植えられている。松尾芭蕉はその姿を见て「风雨に伤みやすきを爱す」と言って彼の俳号にしたと言われている。芭蕉イコールバナナ(実芭蕉)と思うと、芭蕉の句も甘ったるいものに思えてしまうけれども、昔から日本にある芭蕉の爱した芭蕉の木は実のならない芭蕉の木である。

前置きが长くなってしまったが、芭蕉布は昔から冲縄で织られてきた织物である。13世纪顷にはすでに织られていたと言う。布を织る为の糸を身近に求めるのはどこも同じで麻しかり、しな布しかりである。麻も、しな布も植物の繊维をそのまま糸に利用している。绢や绵のように复雑な工程を経て糸を取り出すのではなく、比较的原始的な制糸法である。芭蕉布も同じように昔ながらの方法で造られる。糸芭蕉は植えて2~3年で2メートル程に生长して芭蕉布の原料となる。昔は自生している糸芭蕉を用いたが、良质の繊维を采る为に今は全て栽培している。柔らかく均质な繊维を采る为に、叶留めや芯留めを3、4回するという。こうして大切に育てている糸芭蕉の木は最近珍重されて盗难が相次いで生产者の悩みの种になっている。
原材料の伐采は冬场に行われる。叶を落として1.5メートルの茎が原料となる。糸芭蕉の茎はタマネギのように25~27枚の层をなしている。これを一枚一枚はがし、さらに裏表にはがしてその表侧を糸に使う。上布と同じような工程を経て糸が造られる。茎の中心部に近いほど繊维は细く柔らかいので、着尺用に使われ、外侧は座布団地やコースターなどに使われる。着尺に使う质の良い糸は原木1本からわずか5㌘しか采れないので、一反の着尺を织るのに40~50本の原木を必要とする。

原木から剥いだ原皮は灰汁で煮て柔らかくする。不纯物取り除いた后、「苎绩み」という工程で细い糸にされる。「苎绩み」は爪の先で原皮を裂いて糸にして、それを结んで长い糸にする熟练と根気を要する作业である。できた糸には捻りが挂けられ整経し、絣柄をつけて机に挂けられる。
糸として机に挂けるまでにこの间2~3ヶ月という时间と、多くの労力を必要とする。
もともと冲縄各地で造られていた芭蕉布は、现在冲縄本岛北部、山原(ヤンバル)と呼ばれる大宜味村喜如嘉を中心に织られている。冲縄本岛北部は、中部や南部程戦灾を受けなかった事、土地が痩せていて他の作物が実らず、生命力の强い芭蕉を植えたことなどの地理的な要因もあったけれども、その技术が大宜见村で保存されているのは、村の人达の努力によるものが大きい。
明治の末に平真祥氏が技术の革新を図り、芭蕉布を工芸品としてより高い物にしていった。昭和に入って、真祥氏の息子真次氏が喜如嘉区长として村の殖产の为に全国に芭蕉布を绍介し、大宜味村芭蕉布织物组合を结成するが、戦争により中断してしまう。

戦争による中断は芭蕉布に思わぬ运命を与える事になる。伝统的な文化の理解者である大原総一郎氏との出会いである。真次氏の娘敏子氏は、女子挺身队として冈山県仓敷市の仓敷纺绩の工场を利用した万寿航空机制作所で军用机の制作に従事する。そこで敏子氏はじめ冲縄出身の女性が大原総一郎社长に出会い、本格的に织りや染の基本を学ぶ事ができた。
戦后、敏子氏らは冲縄に戻ると喜如嘉で芭蕉布を织り始めた。戦后の混乱で生活は苦しかったが、敏子氏は芭蕉布を织り続け、昭和26年に琉球政府主催の产业振兴共进会で一等を受赏。29年には岛生产爱用运动周间で优秀赏を受赏するなど、芭蕉布は优れた工芸品として高い评価を受けるようになった。

冲縄が日本に复帰した昭和47年、芭蕉布は県の无形文化财に指定され、その2年后には国の重要无形文化财の指定を受ける。今は敏子氏の嫁の美恵子氏が中心となって、技术の保存に取り组んでいる。しかし、原材料の确保や后継者の问题など难题が山积している。