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【资料】琉球语概说 分布と名称 冲縄県の八重山诸岛,宫古诸岛,冲縄诸岛に,鹿児岛県の奄美诸岛を加えた琉球列岛の岛々で话されてきたことばを総称して,一般に「琉球方言」といいますが,かつての琉球王国のことばであったこと,また,本土で使われていることばと大きく违うために,「琉球语」とも呼ばれることもあります。また,南岛方言,冲縄语と呼ばれたこともあります。本土方言との関系 琉球列岛の人口は约150万人で,日本全体の1パーセント强,面积も1パーセント弱にすぎませんが,北海道から九州までの本土全体に対立し,日本语を二分する方言です。琉球方言(琉球语)と 本土方言(日本语)のあいだには规则的な対応関系があります。琉球方言と本土方言は,共通の祖先(日本祖语)から弥生时代を上限とし古坟时代顷までの时期に共通の祖先から分かれたと推定されています。规则的な対応 音韵法则とも呼ばれる规则的な発音上の対応関系が琉球语(琉球方言)と日本语(标准语)の间にあります。たとえば,标准语と首里方言の间には,次のような母音の対応があります。琉球列岛の北端の喜界岛から最西端の与那国岛までは,1,000km近くもあります。琉球列岛を本州と重ねて,喜界岛を宫城県仙台市に位置させると,那覇市は长野県松本市あたりに,宫古岛は大阪市と京都市の中间あたり,与那国岛は広岛県と冈山県の県境あたりに位置します。この広い海域に岛々が点在しているために,琉球方言内部の违いも非常に大きいのです。この违いは,青森方言と鹿児岛方言の违いよりも大きいという専门家もいます。上の単语は奄美,那覇,宫古,八重山の「ありがとう」と「いらっしゃいませ」です。単语ひとつをとってもこのように违いの幅が大きく,冲縄本岛の人たちは,宫古岛の人たちが话すことばを全く理解できないほどです。発音の面でも,母音が3个しかない与那国方言。长短14个の母音を有する奄美方言。清音と浊音の区别のない宫古大神岛方言。清音と浊音だけでなく中国语のような有気音と无気音の区别をもつ冲縄北部方言など,琉球方言は実に多様です。琉球方言の下位区分 琉球方言は,北琉球方言(奄美冲縄方言群)と南琉球方言(宫古八重山方言群)のふたつの大きな方言に分かれます。冲縄本岛と宫古岛の间には约300kmの岛のまったくない海域があり,ふたつの方言圏を隔てています。このふたつの方言圏はさらに下位の方言に分かれています。
【资料】日琉祖语の分岐年代 1はじめに 本土日本语と琉球列岛の言语が系统関系にあることは疑いの余地もないが,その関系の详细に関して多くの问题が残されている。本稿では日本列岛の言语史への一贡献として,日琉语族の歴史的な発展を考察し,考古学・人类学の见解を参照しながら日琉祖语の分岐年代と琉球列岛への伝播年代の推定を行う。 1.1日琉语族について日本语の方言と见做されてきた琉球列岛や八丈岛のことばが消灭の危机に濒していることが近年认识されはじめたと同时に,それらが日本语の単なる方言ではなく个别の言语と见做した方が妥当であると考えられはじめた。このような流れに伴い,本土日本语の他に琉球诸语や八丈语をも含む多様な「日琉语族」が想定されるようになってきた(図1)。 日琉语族は(本土)日本语と琉球诸语という2つの语派からなることが明らかにされてきたが(Pellard2009,2014),八丈岛の言语の系统的位置が未だに不明で,本稿では扱わないことにする。琉球诸语はさらに北琉球语派(奄美・冲縄)と南琉球语派(宫古・八重山・与那国)に下位分类できる(図2)*1。1.2日琉祖语の分岐年代の问题日本语と琉球诸语の分岐年代に関しては大きく分けて「奈良时代以前」(服部1959,大城1972,Thorpe 1983,中本1990,上村1997,Serafim 2003,Lee & Hasegawa2011等)と「奈良时代以降」(柳田1993,Unger 2009,高梨他2009等)という2つの仮说が存在する。本土日本语の歴史は文献资料によって7・8世纪まで遡ることが可能であるが,琉球诸语の最古の资料は15世纪になってから初めて出现する。一方,奈良时代には日琉语族がすでに少なくとも东北と九州地方まで広く分布していたことが『万叶集』の东歌や防人歌などによって明らかとなっている。しかし,现在の日琉诸语の分布がその时代乃至それ以前の伝播によるものなのか,それとも后代の二次的な伝播と言语(方言)置换によるものなのかは问题である。琉球诸语の资料を日本语の文献史と照らし合わせると,琉球诸语のなかに中古・中世日本语に近似している特徴と上代日本语乃至それ以前の状态を反映する特徴が混在していることが分かる。一见矛盾しているように见えるこの状态こそ琉球诸语の先史を明かにする键となる。∗[email protected]* 1この分类は共通の改新のみによる系统的な分类で,表面的な类似に基づく上村(1997)やかりまた(1999)の分类とは性质が异なる。详细についてはPellard(2009,2014)を参照。
【历史】中国和韩国 有人说,韩国和朝鲜是中国的领土,现在它的“独立”是由中国承认的。 意思是说,只要中国不承认,朝鲜就无法真正“独立”,摆脱附属关系。 那么朝鲜没有经过中国同意就想摆脱宗藩关系,是不是可以理解为一种“叛乱”呢? 只要中国一日不同意,朝鲜就永远无法摆脱附属国的地位,永远延续这种不平等的封建状态,生活在这种压迫、被他国霸制的水深火热之中,这种被动的情绪之中。这与殖民地有何区别? 事实上宗主国的中国统治者,是以一种“王者不治夷狄,来者不拒,去者不追”的不治主义态度对待外国的、原则上并不干涉藩属国的内政。如果朝鲜想脱藩,而中国拒绝,甚至动用武力威胁,那么岂不是与“去者不追“自相矛盾”吗?就好比参加国家体育队一段时间,你坚决想脱队,教练可以拒绝吗?可以用的生命作威胁和恐吓吗?教练又不是黑社会。只要教练不是黑社会,那么就没有理由去威胁到队员的自由。同样,这也适用于中国和朝鲜。 在朝鲜摆脱日本的殖民统治中,中国给予了一定的支持;在反抗美帝的斗争中,中国也给予了一定的支持。但那不过是作为外国的一种友好的援助态度,是为了维护地区的和平与稳定,其次是考虑到“唇亡齿寒”的微妙关系。实际上中国与周边国家的宗藩关系只是维系中国和周边各国友好关系的一种形式,并不具有统治和被统治的实质性内容,因为不会干涉他国内政。“王者不治夷狄,来者不拒,去者不追”。 朝鲜后来分裂成了南朝鲜和北朝鲜,那么中国作为东道主签字了吗?没有。但是有人说,中国对此是默认和支持的,只要中国不承认朝鲜南北分裂,朝鲜就永远无法南北分裂。这种说法没有客观上的联系,无论中国的支持还是反对,亦或是中立,都不过是作为邻国的一种评论的态度,自己根本无权干涉。假如中国对朝鲜南北分裂保持中立态度,与保持支持态度有什么实质的区别呢?如果保持支持的态度,南北对峙就有所缓和吗?如果保持反对的态度,南北就可以和平统一吗?新罗和百济这两个主体民族就可以乳水交融、合二为一了吗? 没有中国的同意,该继续的还得继续。事实上,中国作为邻国、作为评论员是不能对他国事件表示“同意”或“不同意”的,只能作“支持”与“不支持”。“同意”与“支持”是有区别的,“不同意”与“不支持”也是有区别的。如果中国“不同意”则表达出中国作为侵略和霸权的性质,如果中国“不支持”则表达出中国作为国际评论员观察和评论的态度。 事实上没有哪个“附属国”因为中国的不同意而没有摆脱宗藩关系,尼泊尔和阿富汗从英国殖民脱离开来之后没有继续朝贡中国,中国也没有追究,最后不了了之,体现的是一种“不治”、“不追”的态度。 中国与周边国家的藩属关系,一般是出于“大朝梦想”、“大国荣光”的自豪感以及维护周边国家稳定而产生的,同时也是因为通商关系而产生的,除了少数具有侵略性质。比如清朝前期曾多次派兵出征缅甸。1769年,清政府派大学士傅恒督师入缅,缅甸国王孟驳惧而求和。双方议和之后,缅甸派使节朝贡清王朝,表示臣服中国。除了缅甸等个别特例,一般而言中国与周边国家的藩属关系都是自愿产生的,或因为通商关系以及相互利益产生的一种合作,合作不等于主权。 “独立”“不独立”是相对于被侵略和被殖民而言的,在藩属关系中,任何国家都是独立的主权国家,只是在国际上一方处于依附关系而已,这是不能够混淆的。属国国本身是独立的国家,但它与中国有依附关系,不等于主权给了中国。
【历史】中国和韩国 有人说,韩国和朝鲜是中国的领土,现在它的“独立”是由中国承认的。 意思是说,只要中国不承认,朝鲜就无法真正“独立”,摆脱附属关系。 那么朝鲜没有经过中国同意就想摆脱宗藩关系,是不是可以理解为一种“叛乱”呢? 只要中国一日不同意,朝鲜就永远无法摆脱附属国的地位,永远延续这种不平等的封建状态,生活在这种压迫、被他国霸制的水深火热之中,这种被动的情绪之中。这与殖民地有何区别? 事实上宗主国的中国统治者,是以一种“王者不治夷狄,来者不拒,去者不追”的不治主义态度对待外国的、原则上并不干涉藩属国的内政。如果朝鲜想脱藩,而中国拒绝,甚至动用武力威胁,那么岂不是与“去者不追“自相矛盾”吗?就好比参加国家体育队一段时间,你坚决想脱队,教练可以拒绝吗?可以用的生命作威胁和恐吓吗?教练又不是黑社会。只要教练不是黑社会,那么就没有理由去威胁到队员的自由。同样,这也适用于中国和朝鲜。 在朝鲜摆脱日本的殖民统治中,中国给予了一定的支持;在反抗美帝的斗争中,中国也给予了一定的支持。但那不过是作为外国的一种友好的援助态度,是为了维护地区的和平与稳定,其次是考虑到“唇亡齿寒”的微妙关系。实际上中国与周边国家的宗藩关系只是维系中国和周边各国友好关系的一种形式,并不具有统治和被统治的实质性内容,因为不会干涉他国内政。“王者不治夷狄,来者不拒,去者不追”。 朝鲜后来分裂成了南朝鲜和北朝鲜,那么中国作为东道主签字了吗?没有。但是有人说,中国对此是默认和支持的,只要中国不承认朝鲜南北分裂,朝鲜就永远无法南北分裂。这种说法没有客观上的联系,无论中国的支持还是反对,亦或是中立,都不过是作为邻国的一种评论的态度,自己根本无权干涉。假如中国对朝鲜南北分裂保持中立态度,与保持支持态度有什么实质的区别呢?如果保持支持的态度,南北对峙就有所缓和吗?如果保持反对的态度,南北就可以和平统一吗?新罗和百济这两个主体民族就可以乳水交融、合二为一了吗? 没有中国的同意,该继续的还得继续。事实上,中国作为邻国、作为评论员是不能对他国事件表示“同意”或“不同意”的,只能作“支持”与“不支持”。“同意”与“支持”是有区别的,“不同意”与“不支持”也是有区别的。如果中国“不同意”则表达出中国作为侵略和霸权的性质,如果中国“不支持”则表达出中国作为国际评论员观察和评论的态度。 事实上没有哪个“附属国”因为中国的不同意而没有摆脱宗藩关系,尼泊尔和阿富汗从英国殖民脱离开来之后没有继续朝贡中国,中国也没有追究,最后不了了之,体现的是一种“不治”、“不追”的态度。 中国与周边国家的藩属关系,一般是出于“大朝梦想”、“大国荣光”的自豪感以及维护周边国家稳定而产生的,同时也是因为通商关系而产生的,除了少数具有侵略性质。比如清朝前期曾多次派兵出征缅甸。1769年,清政府派大学士傅恒督师入缅,缅甸国王孟驳惧而求和。双方议和之后,缅甸派使节朝贡清王朝,表示臣服中国。除了缅甸等个别特例,一般而言中国与周边国家的藩属关系都是自愿产生的,或因为通商关系以及相互利益产生的一种合作,合作不等于主权。 “独立”“不独立”是相对于被侵略和被殖民而言的,在藩属关系中,任何国家都是独立的主权国家,只是在国际上一方处于依附关系而已,这是不能够混淆的。属国国本身是独立的国家,但它与中国有依附关系,不等于主权给了中国。
【资料】北洋政府时期的汉语音标 有人说“日语假名”和“琉球语假名”都是通过修改“汉语音标”产生的。 但是“汉语音标”是北洋政府时期,而平假名的产生可以推算到隋朝之前。 即使个别“日语假名”是由汉字演变过来的,但是绝对不是修改的“汉语音标” “日语假名”是古代的东西,而“汉语音标”是近现代的东西。 当时虽然为北洋政府晚期,但依然“师夷长技以制夷”,在确立“汉语音标”的时候多少受到了日文片假名的影响,虽然字形截然不同,但是简化的意向以及思路的方式多少有些类似的。(这多少是由当时特殊的历史情形决定的)。 “日语假名”和“琉球语假名”除了个别音节的写法不同之外,其他都是一致的。 即使都是受汉字影响产生的,也是不可能不同步。 而明朝的时候同步了,甚至相同了,只能说明“琉语假名”直接引用的“日语假名”,它们是一个整体。 汉语注音符号,旧称为“注音字母”,为汉字注音而设定的符号,1913年由中国读音统一会制定,1918年由北洋政府教育部发布,共计39个字母,排列以“ㄍㄎ”开头;1920年改订字母顺序,增加一个字母“ㄜ”共计达40个。注音初期以读音统一会所定字音为标准,故有“万v、兀Ng、广Gn”三个字母,后以北京音为标准,“万、兀、广”只作注方言之用,目前仍使用的有37个(声母21个,韵母16个)。 1930年中华民国政府把注音字母改称为“注音符号”,正式的称呼是国语注音符号第一式。下面是日文的假名(诞生于推古时期,约相当于隋朝)1.形态上哪里同了? 2.日文假名诞生在前,汉语音标诞生在后,相隔13个世纪。(古代和现代的区别)。 (汉语音标是近现代才产生的注音,而并非是古代)。
【资料】北洋政府时期的汉语音标 有人说“日语假名”和“琉球语假名”都是通过修改“汉语音标”产生的。 但是“汉语音标”是北洋政府时期,而平假名的产生可以推算到隋朝之前。 即使个别“日语假名”是由汉字演变过来的,但是绝对不是修改的“汉语音标” “日语假名”是古代的东西,而“汉语音标”是近现代的东西。 当时虽然为北洋政府晚期,但依然“师夷长技以制夷”,在确立“汉语音标”的时候多少受到了日文片假名的影响,虽然字形截然不同,但是简化的意向以及思路的方式多少有些类似的。(这多少是由当时特殊的历史情形决定的)。 “日语假名”和“琉球语假名”除了个别音节的写法不同之外,其他都是一致的。 即使都是受汉字影响产生的,也是不可能不同步。 而明朝的时候同步了,甚至相同了,只能说明“琉语假名”直接引用的“日语假名”,它们是一个整体。 汉语注音符号,旧称为“注音字母”,为汉字注音而设定的符号,1913年由中国读音统一会制定,1918年由北洋政府教育部发布,共计39个字母,排列以“ㄍㄎ”开头;1920年改订字母顺序,增加一个字母“ㄜ”共计达40个。注音初期以读音统一会所定字音为标准,故有“万v、兀Ng、广Gn”三个字母,后以北京音为标准,“万、兀、广”只作注方言之用,目前仍使用的有37个(声母21个,韵母16个)。 1930年中华民国政府把注音字母改称为“注音符号”,正式的称呼是国语注音符号第一式。下面是日文的假名(诞生于推古时期,约相当于隋朝)1.形态上哪里同了? 2.日文假名诞生在前,汉语音标诞生在后,相隔13个世纪。(古代和现代的区别)。 (汉语音标是近现代才产生的注音,而并非是古代)。
【资料】琉球语概说 分布と名称 冲縄県の八重山诸岛,宫古诸岛,冲縄诸岛に,鹿児岛県の奄美诸岛を加えた琉球列岛の岛々で话されてきたことばを総称して,一般に「琉球方言」といいますが,かつての琉球王国のことばであったこと,また,本土で使われていることばと大きく违うために,「琉球语」とも呼ばれることもあります。また,南岛方言,冲縄语と呼ばれたこともあります。本土方言との関系 琉球列岛の人口は约150万人で,日本全体の1パーセント强,面积も1パーセント弱にすぎませんが,北海道から九州までの本土全体に対立し,日本语を二分する方言です。琉球方言(琉球语)と 本土方言(日本语)のあいだには规则的な対応関系があります。琉球方言と本土方言は,共通の祖先(日本祖语)から弥生时代を上限とし古坟时代顷までの时期に共通の祖先から分かれたと推定されています。规则的な対応 音韵法则とも呼ばれる规则的な発音上の対応関系が琉球语(琉球方言)と日本语(标准语)の间にあります。たとえば,标准语と首里方言の间には,次のような母音の対応があります。琉球列岛の北端の喜界岛から最西端の与那国岛までは,1,000km近くもあります。琉球列岛を本州と重ねて,喜界岛を宫城県仙台市に位置させると,那覇市は长野県松本市あたりに,宫古岛は大阪市と京都市の中间あたり,与那国岛は広岛県と冈山県の県境あたりに位置します。この広い海域に岛々が点在しているために,琉球方言内部の违いも非常に大きいのです。この违いは,青森方言と鹿児岛方言の违いよりも大きいという専门家もいます。上の単语は奄美,那覇,宫古,八重山の「ありがとう」と「いらっしゃいませ」です。単语ひとつをとってもこのように违いの幅が大きく,冲縄本岛の人たちは,宫古岛の人たちが话すことばを全く理解できないほどです。発音の面でも,母音が3个しかない与那国方言。长短14个の母音を有する奄美方言。清音と浊音の区别のない宫古大神岛方言。清音と浊音だけでなく中国语のような有気音と无気音の区别をもつ冲縄北部方言など,琉球方言は実に多様です。琉球方言の下位区分 琉球方言は,北琉球方言(奄美冲縄方言群)と南琉球方言(宫古八重山方言群)のふたつの大きな方言に分かれます。冲縄本岛と宫古岛の间には约300kmの岛のまったくない海域があり,ふたつの方言圏を隔てています。このふたつの方言圏はさらに下位の方言に分かれています。
【资料】大住隼人舞(月読神社/天津神社) 10月14日に、天津神社・月読神社で大住隼人舞が行われます。(京田辺市:10月の行事) 大住隼人舞は、九州の大隅半岛から移り住んで来た隼人の人々が、宫中において舞を踊ったのが初めとされています。 この隼人舞は、1971年に复活させ、今日に至っています。隼人舞は、古代の舞とも言われ、古代装束の姿で2人づつ舞ます。 隼人舞は、祓いの舞。かみおぎの舞。振剣の舞。盾状の舞。弓の舞。松明の舞。の6つの舞があります。 本来、隼人舞の他、大住舞もあるのですが、大住舞は少子化の影响で行われていないようです。 最初に天津神社で18:30に行われ、次は月読神社で19:30に行われます。月読神社では夜店も出ます。隼人舞は、大住中学の男子生徒が受け継いで踊っています。囃子方は龙笛11名(女子9名)でした。 舞う所には、四方に笹竹を立て縄で结び、结界を张り巡らせます。 舞台の正面には、大竹に天盖と五色の幡が付けられ、祭坛には米や野菜などが供えられます。隼人舞が始まる前に、进行役の方が隼人舞の说明をされます。 隼人舞の踊り手は、3年に1度、変わるそうです。今回は、変わった年でした。人前で舞うのは初めてらしいです。 隼人舞の6つの演舞(天津神社)です。
【资料】縄文人共通の太地母神 万众敬仰的“太地母神”(亦太阳女神),一般认为是神道信仰中天照大御神(高天原女神)的原型。 最近の研究によれば、縄文时代の土偶はあらかじめ壊すために作られていたことが分かっている。土偶はことごとく、壊れて発见されるからである。そして、乳房をもち、女性をかたどっている。つまり、土偶は太地母神・女神であり、破壊(杀される)ことによって五谷豊穣が生み出すという仪式の产物だったのである。そうして土偶は徐々に増えて行き、ある地域では、故意に壊されるようになりました。作るときから、きれいに割れるように作っているのです。破片はあちこちに运ばれ、全身が揃うことはまれになりました。八ヶ岳山麓を中心とする中部地方および北陆などに、縄文时代中期の一代文化圏が形成され、土偶が数多く作られました。その大半が女性的で臀部がとても强调されているのは、出产や豊穣に関系があったからでしょうか?子供を抱いたり、生み落している最中だと言われる土偶もあります。これらは祈りの対象だったのか、别な役割があったのか。   古事记・日本书纪に记された日本最古の物语は、縄文时代が终了してからさらに1500年以上も経った顷に编纂されました。けれども、その世界観の中に、縄文时代以来日本人が抱いてきた精神が、反映されているという说があります。ひとつは古事记の「オオゲツヒメ」の物语で、この神様は体のあちこちの穴から食べ物を出すことができます。スサノオノミコトという神様にご驰走を出そうとして、うっかりその场面を见られ、杀されてしまいました。するとオオゲツヒメの体から、五谷の贵重な种が现れた、と书かれています。土偶も、もしかしたら壊され埋められることで、贵重な食粮を生み出すと信じられたのでしょうか? けれどもここに、壊されなかった土偶があります。国宝・縄文のビーナスは、村の中央広场の穴に、丁宁に埋められていました。この顷、先祖の墓は広场にありましたので、墓に副葬されたのかもしれません。ハート形の颜に出っ张ったお腹、巨大な臀部はまさに太地母神のようです。これこそ祈りの対象だったのかと想像したくなる、优れた造形です。   更に数千年が経过した縄文时代の后期・晩期には、青森辺りを中心に、东北・北海道に広がった文化圏が発生しました。こちらは多くの遮光器土偶を生み出しました。土偶は漆で赤くあるいは黒く涂られ、鲜やかな色彩と复雑な文様は、実に华丽です。他にも见事な造形を夸る山形土偶、みみずく土偶、立膝で座る土偶、板状土偶、目にアスファルトが入った土偶など、縄文时代1万年以上の间に、日本列岛の各地で土偶が作られました。   土偶とは精霊あるいは神様であったのか、はたまた悪魔であったのか、いや、単なる玩具だったと言う方もおられましょう。このたび北海道から九州にかけて、全国各地を代表する土偶がMIHO MUSEUMに集合します。日本人の精神のルーツに厳然と存在する土偶の正体、ぜひ见极めて顶きたいと思います。
【资料】隼人及隼人语 隼人の大楯隼人崇拜蛇、火、鹰 从文化来看,隼人文化应该是绳文文化和南岛文化、澳洲(玻利尼西亚)文化的杂糅。 但从遗址来看,隼人的祖先应该是绳文人。縄文时代の高床式建物(复元) 富山・桜町遗迹 隼人は勇猛なポリネシア族である。黒潮渡海は、おそらく纪元前の3000年顷からあったと思われる。古くからの日本の原住人で、纪では长狭(ながさ)と书かれる。ニニギに一斉に仕えて、大和を攻略して、河内王朝を立てた种族である。ニニギが鹿児岛県の野间岬に上陆して、「ここは谁の国か?」と闻くと、「是は长狭の住む国なり。然れども今は乃ち天孙に奉上る」と、答えたのが「事胜国胜长狭」で、野间岳の麓の人とされる。ニニギが上陆した地には人が住んでいた。「そこに人あり」と纪に书かれる。つまり、早い话、长狭とは萨摩隼人だった。もともと、この国には长狭=隼人が住んでいたが、今は天孙に使えている・・・つまり、逆に言えば、天孙よりも早くから住み、国を作っていたとも取れるのである。 事胜国胜长狭は、事胜国胜は意味语で、王と同义である。”ながさ”、または、”ながそ”という种族の王で、三轮王朝の王である。実は天尊で海族の大英雄だった。 隼人≈ポリネシア族の妃として特定できる姫は、おそらく髪长姫(かみながひめ)であろう。日向隼人の诸県君牛(もろがたのきみうし)の娘である。隼人の朝廷への贡献は鹿皮など50枚などが记录されており、农耕をもっぱらとするより狩猟生活を行っていたと推测される。 髪长姫(かみながひめ)は、美女の噂が高く、ニニギは、三月に使いを送って召すことにした。カミナガヒメは、九月になって数十艘をもって九州の日向から瀬戸内海を航行していた。この时、ニニギは淡路岛に狩りに行幸していたが、运良くこのカミナガヒメの船団が海を通るのを目撃した。はじめ、「あの大鹿はなんだろうか。海に浮んでたくさんこちらへ向かってくる」と、ニニギが目撃し、周囲も怪しんで大騒ぎになった。使者が行ってみると、それは鹿ではなく人间だった。カミナガヒメと従者たちは、角がついた鹿の毛皮を体にまとっていたのである。この话は、播磨の鹿子水门(かこのみなと)の地名の由来。(纪十) そこで言えることは、日向の风俗がいかに异なっていたか・・・・・が想像できる。そこで、カミナガヒメは隼人族の姫だと言える。  日向から大和に遣ってきた髪长姫を见て大鹪鹩尊(おおさざきのみこと)は一目惚れしてまった。一夜にしてねんごろになっていた。息子の热い心を察して、ニニギはこの息子の大鹪鹩に娶(めあわ)せることにした。ニニギはもう年だったので、子に譲ることにしたが、息子が先にこの姫を陥落させていたことは知らなかったようだ。日向の诸県君牛が献上した姫、カミナガヒメ、なんでも大和にも噂の届く绝世の美女だった。书记に、大鹪鹩(おおさざき)との恋爱歌を纪では四首も载せている。  鹿児岛県水迫(みずさこ)遗迹は、1999年から调査が始まった。旧石器时代后期(1万5千年前)のもので、竖穴住居群、道路状遗构、石器制作场、杭列などが発掘された。规模から、かなり立派な定住住居と判断でき、かなり高度な生活文化があった。この时代の旧石器时代の住民の生活観を一変させることになった。首长を中心にした组织が村落を支えていた可能性が高い。鹿児岛県水迫(みずさこ)遗迹では、南岛部族で、黒潮渡海族だったのではないだろうか。 (大隅隼人、萨摩隼人、日向隼人などそれぞれの拠点によって呼び名が违うが、皆、曽人である。长狭はのサは、熊曽のソの転化か、どうあれ同义ではないだろうか。隼人は、大和で朝廷の警护も行っていた。隼人の警护兵が门の番をしながら出す叫び声がまるで犬の远吠えのようだったと记される。(纪)また、隼人の兵の舞はからだをくねくねとさせ、犬の吠えるような声をだしながら踊ったとも书かれる。戦场ともなれば、その雄叫びは大音声となってこだました。不思议なことに、火照命(ほあかりのみこと)が阿多隼人の祖と记には书かれている。)
【资料】八重山の歴史 八重山には、琉球本岛とは又违った歴史が有ります。 どちらかというと、昔は以南の文化の影响を强く受けていたようですが、古い时代に関しては文献などの资料はほとんど残っていません。「日本书纪に太朝臣远建治が奄美(あまみ)、信覚(しがき=いしがき)、球美(くみ=西表か久米岛?)の岛人52人を率いて太宰府に入贡した。」と书かれ、八重山地方が初めて日本の歴史に登场しました。 琉球王国では、1390年の察度王统の时代に中山へ进贡したという记载があります。 また、1477年には与那国岛に朝鲜人が漂着した时の様子が朝鲜の歴史书である李朝実录成宗10年条に记されています。 それらから推测すると、どうやら昔の八重山地方は、争い事や犯罪の少ない岛々だったようです。 オケヤアカハチの乱:波照间岛で生まれたオケヤアカハチが石垣岛の大浜村に移り、そして、石垣村の豪族である长田大主の妹と结婚し、豪族として势力を広げていきます。 しかし、1500年にオケヤアカハチの乱として知られる、宫古の豪族であった仲宗根豊见亲と琉球王国の连合军との戦いに败れ、讨ち取られてしまいました。 この戦の原因は、八重山の伝わる古来からの神への信仰をを琉球王府に禁止されたからとか、琉球王府への贡纳を拒否したからとか、宫古の仲宗根豊见亲との势力争いに琉球王府が介入したなどの诸说があり、今となっては定かでは有りませんが、それ以降琉球王国の支配下に入ったわけです。サンアイイソバ :八重山でも石垣と离れている与那国岛では、サンアイイソバといわれる女性の首长が支配していたようですが、1522年(一说には1510年)にはこれも琉球王国の支配下におかれて、八重山诸岛全域は名実共に琉球王国の一部分となったわけです。 人头税 :1609年に九州の萨摩藩が琉球に侵入し、冲縄を支配し始めました。琉球王府が过酷で知られているを人头税导入したのもそれからまもなくで、八重山の人々も重税に苦しめられました。 明和大津波 :八重山、宫古を袭った1771年の大津波は、八重山だけで家屋の倒壊约2000栋犠牲者约9000人にも及んだといわれています。ロバートバウン号事件 :1852年2月、厦门(アモイ)で集められた400人余りの苦力(クーリー)が、米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途中、辫髪(べんぱつ)を切られたり、病人を海中に投弃されるなどの暴行に堪えかねてついに蜂起して船长ら7人を打ち杀しました。 船はその后台湾に向かいましたが石垣岛冲に座礁、380人が岛に上陆。 石垣の人々は仮小屋を建て、彼らを収容しました。 しかし米国と英国の海军が三回にわたり来岛、炮撃を加え、武装兵が上陆してきびしく捜索を行いました。 中国人达は山中に逃亡しましたが、铳撃、逮捕され、自杀者、病没者も続出したとの事です。 琉球王朝と蔵元は人道的に対応、その后事件処理に関する国际交渉に取り组んだ结果、翌1853年9月、琉球侧が船二只を仕立て、生存者172人を福州に送还。 ここで亡くなられた中国人を祭ったのが石垣岛にある唐人墓です。 戦争マラリア :太平洋戦争时には台湾へ疎开する人もいましたが、残った人々は岛内の山地へ疎开。その结果マラリアを媒介するハマダラ蚊の被害で2500名以上の死者が出たそうです。波照间の人达で西表に疎开した人达もマラリアで岛民の三分の一近くが亡くなられてという事です。 大戦が终わると、ここ八重山には米军统治のもとに八重山民政府が置かれました。 その后琉球政府に统合され、1972年冲縄県として日本复帰を果して今に至ります。
【うちなー口】“冲绳大和口”和“冲绳弁”的对比 “冲绳弁”即冲绳土著语,但有时也会与“冲绳大和口”(冲绳共通语)相混淆。 有时候“冲绳大和口”在作“敬体形”和“书面体”的时候,也使用“冲绳弁”。 比如“你做什么工作?”冲绳大和口的表达是“やー 仕事(しぐとー)何(ぬー)やが?” 而冲绳弁的表达是“うんじゅが 仕事(しぐとー)何(ぬー)やいびーが?” 这里“冲绳弁”的表达在“冲绳大和口”里是作“敬体形”或“书面体”。 少数时候“冲绳大和口”里也含有“冲绳弁”的表达方式 这也就是它们容易混淆的原因。 “冲绳大和口”一般为年轻人使用 “冲绳弁”一般为中年人或长者使用,年轻人偶尔在口语里会使用。 在琉球,冲绳语受到了日本标准弁的影响,形成了一种含有浓重琉球风味的日本语——冲绳式普通话,也就是“冲绳式日本语”(冲绳大和口)。但是值得注意的是“冲绳大和口”不等于“冲绳弁”,在冲绳“冲绳弁”(首里弁)尚保存完好,与“冲绳大和口”有着严格的区分。“冲绳大和口”是以东京腔即标准弁为基础的,掺杂一点奄美腔和冲绳的固有词汇,连冲绳弁特色的终助词都没有了,取而代之的是标准弁的终助词或奄美腔的终助词。而“冲绳弁”则是类似九州博多弁的一种方言,亦拥有自身的特色,和标准弁以及“冲绳大和口”有着明显的区别。另外九州的“博多弁”和“标准弁”也有明显的区分。“冲绳大和口”是在冲绳人学习日本普通话不标准时产生的,不等于“冲绳弁”。 汉语     冲绳大和口          冲绳弁 再见     今から行じ来ゅーん     めんそーれー 或(いめんしぇーびり) 不明白     分からん          分かやびらん 你好     ご机嫌や(もしもし)     はいさい 你好吗?    ご机嫌やみ?          顽丈やいびーみ? 你姓名?     お名前は何や?       う名前や何やいびーが? 你哪国?     どこから来ましたか?      まーからやいびーが 早上好       おはっ              起きみそーちー 劳驾     お愿い(お手数をおかけぇ)     御无礼さびら对 不起      すんません             悪さいびーん 谢谢     ありがてさー            御拝でーびーる 我爱你     好きや               好ちゅさ 那个是…     これや…             くりえ… 好了     さあさあ               やあやあ 好      良しゃ               とうー(ジョートー)
【うちなー口】“冲绳弁”与“博多弁”的联系 “e”音便“i”的现象,在博多弁中也有,比如「せ」→「し」「だ行」→「ら行」(可逆),比如:「角のうどん屋」→「かろのうろんや」,“ど”变成了“ろ”,所以有时就直接写成「角のうろん屋」。而柳州弁里的「うぇ」「ぎぇ」「くゎ」「ぐゎ」「つぁ」「つぇ」「ぢゅ」等是和奄美弁十分接近的。部分又和国头弁接近。柳川弁里,「し」→「すい」,和奄美弁比较接近。「〜ばい」「〜たい」也是奄美弁常用的,还有比如尾词“と?”也是奄美弁里经常出现的。当然在博多弁里也有出现。「知っているの?」→「知っとーと?」。再比如「みへえで」「にへえで」都有谢谢的意思,也可以写成「みひーで」,比较接近首里弁。而首里弁里经常出现的助动词「〜やーび」其实在博多弁里是有原型的,由「〜やーへ」进化而来。而「て」作命令形的助动词时→「やいー」例如:ちいとあすこば见やいー。「やいー」这种轻微的命令形,可以看作是首里弁肯定形「やいびーん」的原型。单从语音上去考究,首里语和博多弁是有一部分差别。け变成了き或ち,へ变成了び,ろ变成了る等等,但是博多弁里的だ行也转变成了“ら”行,“き”或“け”有时也变为“ち”。如果把博多弁当成是标准日本语去学习,会发现博多弁相对于首里弁,不过如标准弁相对于博多弁那种程度。冲绳弁没有e和o,但是有e:和o:,所以从古日语到冲绳弁,发音的改变也是不彻底的,几乎五十音都在,并多了几个特殊发音,例如“ti,tu,di,du,kw-,hw-,chye”,也可以用五十音近似表示“てぃ、てぅ、でぃ、でぅ、くぅ、ふぅ、ちぇ”。前面所说的(だ)行转变成(ら)行,博多弁里也有。的确,虽然“け”有时会变成“ち”,但博多弁“け”并没有消失,比如「どげ」「〜やけ」。但是博多弁「やけ」一般读成「やけぃ」,单独的け是很少出现的,要么就是けん。比如熊本腔“やべい”表示惊讶的语气词,有时又可以读成“やびーん”,再比较一下首里弁的终助词或终止形“やいびーん”,就会发现其中的相似之处。
【うちなー口】与“汉语官话”的区别 需要把“琉球语”和琉球国外交时使用的“汉语官话”区分开来,“汉语官话”只是在与明朝外交时才使用,负责使用的就是“通事”一职。就好像我们出访欧美等国家需要带“英语翻译”一样,“通事”就是琉球国外交时的“汉语翻译”。 中国最早记载琉球语言文字的是《使琉球录夷语夷字附》: 跟东亚的其他国家一样,除了本土语言之外,汉字为琉球国外交时的官方文字,汉语在某一个时候也可以看成是琉球的“通用外语”,在与中国、朝鲜、越南的外交往来中皆使用汉语。琉球人的石碑碑文以及士族的家谱,也发现有汉字记载。与明清和日本交往,往往通事一职非常重要。在明清时代,琉球国不断向南京和北京的国子监以及福州的琉球馆派遣留学生学习汉语语言。根据对留存下来的琉球人使用的汉语官话课本的研究显示,琉球人所学习的汉语官话在语音上受到了闽语,尤其是福州话的影响,严格地说是“福州的官话”。早期,琉球国在外交场合皆使用汉语,而在官方文书上则使用汉字与假名混合的琉球语书写系统,有时也使用汉语书写系统。除了汉字之外,琉球亦拥有自创的字,即所谓的“球字”[2](包括自创字和假名符号)。 一般而言,琉球的普通民众不需要学习“汉语”这门外语,所以传统的琉歌记载均为象形符号或平假名的书写方式。琉球语亦有不同的方言,而方言之间的差异大概相当于法语和意大利语之间的差异。昔日的琉球国使用汉字和假名记述王朝历史,而下层百姓则使用一种平假名及象形文字。
【特征分析】港川人、縄文人、柳江人、ワジャク人 港川人:史前冲绳人 绳文人:史前日本人 柳江人:史前广西人及西南民族 ワジャク人:史前爪哇人(马来人的旁系祖先) 山顶洞人:中国北方人 港川人は、颜は縄文人と似ていますが、前头骨が小さく后头骨の上半分が突出する点や四肢骨の筋肉付着部が発达していない点では、縄文人とは似ていません。上部港川人や浜北人は、时代も新しく、大腿骨の筋肉付着部が発达しているところは縄文人とそっくりです。おそらく、港川人と同じような人々が、生活技术の発展あるいは环境の変化によって上部港川人や浜北人のような人々に进化し、さらに縄文人になったのでしょう。やがて、縄文人は、日本列岛各地で人口をふやし、独自の豊かな文化を筑いていきます。 日本の后期更新世人の代表である港川人の头骨を、アジアの化石人类の头骨と比べてみましょう。港川人とワジャク人は、上から见た头の形が卵形です。頬骨は前と横に出っぱっています。鼻の上の眉间が目の上の眉弓よりも発达しています。山顶洞人と柳江人は、上から见た头の形が表形です。頬骨はあまり出っぱっていません。また、眉间より眉弓が発达しています。総合してみると、港川人は、インドネシアのワジャク人と似ているので、东南アジアとの関连が强そうです。3~2万年前から、太平洋沿岸の地域で人々の行き来が活発にあったと考えられます。港川人も南方からやってきたのでしょう。结论得出:港川人、縄文人是最为接近的,其次与ワジャク人接近 而与山顶洞人、柳江人相差较大
【转载】我が子よ… よくお闻きなさい 我が子よ… よくお闻きなさい。 これからあなたに话すことは…とても大切なこと。 わたしたちが、ここから始める… 亲から子へと、绝え间なく伝えてゆく… 长い长い…旅のお话なのですよ。 この星はまだ、歩きはじめたばかり。 だからわたしたちはここに生まれた。 わたしたちは无限に记忆を継いでゆく。 この星で起こるすべての事象を见闻き、母から子へと受け渡していく。 つまり、それはこの星の记忆。 わたしたちは、星の记忆を司るものなのです。 星の记忆は、永远に幸せでなければなりません。 憎しみや争いで空が覆い尽くされた时。 この星は叹き悲しみ、あらゆるものを生み出した己を忌むことでしょう。 全ては混沌に戻り、そして无に帰すでしょう。 だから、わたしたちは幸せであり続けましょう。 大地や空や海に暮らす者たちすべてに、无限の恵みをもたらすよう… それこそが、わたしたちという种の役目。 忘れることを许されない、わたしたちの夸り。 多くの困难が、行く手には待っているでしょう。 辛いことや悲しいこともあるでしょう。 时の流れに立ち向かえるほど、わたしたちは强くもありません。 わたしたちもいつの日か、灭びる时を迎えるでしょう。 それは、避けようのない结末。 けれど、最后は… 星の记忆を担う最后の子には… どうか、幸せな记忆を。 その时こそ… わたしたちは役目を终え、眠りにつけるのでしょうから。 别れの时が来ました。 わたしは空に届けます。 この星の最初の记忆を。 あなたと暮らした、幸せな日々の记忆を。 悲しむことはありません。 わたしはいつまでも、あなたと共にあるのです。 雨粒が大河となり、そして海に集まるように… だから… あなたには、あなたの幸せを。 その翼に、宿しますように。
【历史】“附庸国”不等于“领土主权” 1291年,元世祖遣副万户杨祥讨伐琉球,未能到国。随后,在元朝元贞二年(1296年),元成宗再次派遣福建省都镇抚张浩,率水军进攻琉球,国人合力拒战,元兵抢一百二十余人而返。 “张浩”汉人是也。 《中山世谱》:元至元二十八年辛卯,(世祖灭宋,改天下之号曰大元)世祖改「流求」曰「瑠求」,遂遣副万戸杨祥等,率六千军。给金符赉诏,以降我国。杨祥行出海洋,遽会一山军。相战小挫,未至我国而引还。 元贞二年丙申,(世祖崩,成宗嗣立,改元元贞)福建省平章政事高兴上言:「瑠求未从,宜发兵袭之。」成宗遣省都鎭抚张浩等率军抵国。时我国臣民深沐王化,皆有委身爱国之心。见元兵来侵,国人合力,拒战不降。张浩无计可施,卒掳一百三十人而返。 明朝明太祖《即位建元诏》:“朕为臣民推戴,即位皇帝,定有天下之号曰大明,建元洪武。是用遣使外夷,播告朕意,使者所至,蛮夷酋长称臣入贡。惟尔琉球,在明朝东南,远据海外,未及报知。兹特遣使往谕,尔其知之。” 明太祖称“琉球”为外夷,以表明不是明朝的领土。莫非所有称得上“外夷”的国家,其原住民的领土都是明朝的?莫非“天子”是“一统天下”,天下之土地皆归明朝?莫非是封建迷信心理作怪?但明太祖是一个明事理的人,不会像元朝侵略者那样去做。其实明太祖这里的“外夷”已经指定了其并非是明朝的王土。 之前元朝侵略,英祖王带人拼命反抗,最终打跑侵略者。之后明朝诏谕,琉球的统治者为什么就答应了呢?难道是明太祖或使者杨载长得好看? 有人说是“琉球王国”主动“归顺”明朝的,是明朝的礼节感动得“琉球国王”想加入“大明朝”的同盟。这种说法莫过于太主观和煽情了。试想,如果元朝对“琉球国王”也以礼相待,英祖王是否也被元朝的礼节感动得想加入“大元”的同盟呢?如果日本对中国也以礼相待,中国皇帝是否也被日本的礼节感动得想加入“大日本”的同盟呢? 人又不傻,你不愿做的事情,别人又怎么会愿意?如果哪一天中国的皇帝因为日本的礼节而感动得归顺日本,肯定被骂作汉奸。而古代的“琉球国王”因为明朝的礼节而感动得想加入明朝,那么也可以骂他“琉奸”。 人又不傻,巨大的经济利益才是始作俑者,琉球和明朝通商可以带来巨大的经济利益,而成为附庸国,接受名义上的册封可以给通商带来许多便利。向明朝朝贡换来的是舍小利、赚大钱,又不是要把琉球的领土卖给明朝,这种亏本的买卖谁会做?领土又不是可再生资源。 所以琉球成为明朝的“附庸国”,要看这里的“附庸”怎么定位。 关键就是要看“册封”,明朝对外国的册封,“琉球”又不是首例,像朝鲜、哈萨克斯坦、苏禄、缅甸、暹罗、浩罕、阿富汗、尼泊尔等都曾是中国的附属国。为什么这么多国家都要主动朝贡中国呢?是因为中国人长得好看吗?是想加入“中华大家庭”的同盟吗?建立“华联”吗?都不是!巨大的经济利益才是背后的诱因,若不成为中国的“朝贡国”,将会被禁止与中国通商,或者通商会被受到大量限制。 所以说,“附庸国”或“附属国”并不等于“领土主权”。 而有人说了,西方个别国家也偷偷地将“附属国”纳入自己的领土主权,别人可以那么做,我们为什么不能那么做? 但是别人搞殖民地、搞侵略,你也搞殖民地、搞侵略吗? 对于有人认为西方个别国家将附属国纳入自己的领土主权,我只想说:附属国不等同于领土主权,在西方某个国家将附属国纳入自己领土主权的一瞬间,殖民性质已经被决定了,由“附属”的关系转变为“殖民”的关系,由“附属”转变为“吞并”。再者,西方“附属”的性质不一定等同于中国“附属”的性质,西方“dependency”不一定等同于中国“附属”的意思,取决于程度与方式,比如苏格兰和英格兰本就是附属的关系,到后来通过战争合并了,那么“dependency”已经变质了,变成了“colony”。又后来苏格兰人民争取自由,拥有了绝大程度的自治,又由“colony”变成了“dependency”,此时“dependency”是最大限度的“dependency”,是“colony”性质的“dependency”,与中国“附属”的含义是不同的。而即使是苏格兰人民,都不承认主权属于大英帝国。
【开心一刻】绳文文化起源于少昊部落或太昊(伏羲)部落? 真是太科学了!少昊部落打仗失败逃到日本,成为第一批日本人,少昊部落是绳文人?(看绳文人骨化石与汉族人的区别,此处打脸100下 ) 少昊曾被尊称为神(有人说是太阳神),所以日本的太阳神其实是少昊。而日本的太阳神-天照大神是女的,是母系氏族文化产生出来的东东,难道少昊是女的??还是变性人??(泰国和韩国坐耐不住了。)1.鸡崇拜??就算是有过吧。但不是主流,你是否是将“乌鸦崇拜“看成了“鸡崇拜”??把”乌鸦“看成了“鸡”??太昊还是少昊,除了中国古代的神话故事中出现过,有考古依据吗? 2.只要日本的绳文时代从原始发生了变化,就被说成是受中国的影响??人家自己不会发展啊??人家有了变化就说是中国造成的。作为中国的邻国来说,中国还真不是一盏省油的灯。 就算日本的每一次变化都是由中国造成的,日本的每一次变化都是与中国的变化同步的。那么为什么每一次的每一次的中国会对日本“文化入侵”呢? 日本的每一次变化都是与中国的变化同步的,按这种逻辑下去,日本人吃饭也是因为此时有中国人吃饭,中国人吃饭其实是在对日本人施拟态巫术,让日本人的意念受中国人吃饭的意念控制,日本人才会去吃饭。这就是很奇妙的逻辑,但是事实是这样吗??请看标题。
【うちなー口】“冲绳弁”与“博多弁”的联系 “e”音便“i”的现象,在博多弁中也有,比如「せ」→「し」「だ行」→「ら行」(可逆),比如:「角のうどん屋」→「かろのうろんや」,“ど”变成了“ろ”,所以有时就直接写成「角のうろん屋」。而柳州弁里的「うぇ」「ぎぇ」「くゎ」「ぐゎ」「つぁ」「つぇ」「ぢゅ」等是和奄美弁十分接近的。部分又和国头弁接近。柳川弁里,「し」→「すい」,和奄美弁比较接近。「〜ばい」「〜たい」也是奄美弁常用的,还有比如尾词“と?”也是奄美弁里经常出现的。当然在博多弁里也有出现。「知っているの?」→「知っとーと?」。再比如「みへえで」「にへえで」都有谢谢的意思,也可以写成「みひーで」,比较接近首里弁。而首里弁里经常出现的助动词「〜やーび」其实在博多弁里是有原型的,由「〜やーへ」进化而来。而「て」作命令形的助动词时→「やいー」例如:ちいとあすこば见やいー。「やいー」这种轻微的命令形,可以看作是首里弁肯定形「やいびーん」的原型。单从语音上去考究,首里语和博多弁是有一部分差别。け变成了き或ち,へ变成了び,ろ变成了る等等,但是博多弁里的だ行也转变成了“ら”行,“き”或“け”有时也变为“ち”。如果把博多弁当成是标准日本语去学习,会发现博多弁相对于首里弁,不过如标准弁相对于博多弁那种程度。冲绳弁没有e和o,但是有e:和o:,所以从古日语到冲绳弁,发音的改变也是不彻底的,几乎五十音都在,并多了几个特殊发音,例如“ti,tu,di,du,kw-,hw-,chye”,也可以用五十音近似表示“てぃ、てぅ、でぃ、でぅ、くぅ、ふぅ、ちぇ”。前面所说的(だ)行转变成(ら)行,博多弁里也有。的确,虽然“け”有时会变成“ち”,但博多弁“け”并没有消失,比如「どげ」「〜やけ」。但是博多弁「やけ」一般读成「やけぃ」,单独的け是很少出现的,要么就是けん。比如熊本腔“やべい”表示惊讶的语气词,有时又可以读成“やびーん”,再比较一下首里弁的终助词或终止形“やいびーん”,就会发现其中的相似之处。
【うちなー口】与“汉语官话”的区别 需要把“琉球语”和琉球国外交时使用的“汉语官话”区分开来,“汉语官话”只是在与明朝外交时才使用,负责使用的就是“通事”一职。就好像我们出访欧美等国家需要带“英语翻译”一样,“通事”就是琉球国外交时的“汉语翻译”。 中国最早记载琉球语言文字的是《使琉球录夷语夷字附》: 跟东亚的其他国家一样,除了本土语言之外,汉字为琉球国外交时的官方文字,汉语在某一个时候也可以看成是琉球的“通用外语”,在与中国、朝鲜、越南的外交往来中皆使用汉语。琉球人的石碑碑文以及士族的家谱,也发现有汉字记载。与明清和日本交往,往往通事一职非常重要。在明清时代,琉球国不断向南京和北京的国子监以及福州的琉球馆派遣留学生学习汉语语言。根据对留存下来的琉球人使用的汉语官话课本的研究显示,琉球人所学习的汉语官话在语音上受到了闽语,尤其是福州话的影响,严格地说是“福州的官话”。早期,琉球国在外交场合皆使用汉语,而在官方文书上则使用汉字与假名混合的琉球语书写系统,有时也使用汉语书写系统。除了汉字之外,琉球亦拥有自创的字,即所谓的“球字”[2](包括自创字和假名符号)。 一般而言,琉球的普通民众不需要学习“汉语”这门外语,所以传统的琉歌记载均为象形符号或平假名的书写方式。琉球语亦有不同的方言,而方言之间的差异大概相当于法语和意大利语之间的差异。昔日的琉球国使用汉字和假名记述王朝历史,而下层百姓则使用一种平假名及象形文字。
【うちなー口】“冲绳大和口”和“冲绳弁”的对比 “冲绳弁”即冲绳土著语,但有时也会与“冲绳大和口”(冲绳共通语)相混淆。 有时候“冲绳大和口”在作“敬体形”和“书面体”的时候,也使用“冲绳弁”。 比如“你做什么工作?”冲绳大和口的表达是“やー 仕事(しぐとー)何(ぬー)やが?” 而冲绳弁的表达是“うんじゅが 仕事(しぐとー)何(ぬー)やいびーが?” 这里“冲绳弁”的表达在“冲绳大和口”里是作“敬体形”或“书面体”。 少数时候“冲绳大和口”里也含有“冲绳弁”的表达方式 这也就是它们容易混淆的原因。 “冲绳大和口”一般为年轻人使用 “冲绳弁”一般为中年人或长者使用,年轻人偶尔在口语里会使用。 在琉球,冲绳语受到了日本标准弁的影响,形成了一种含有浓重琉球风味的日本语——冲绳式普通话,也就是“冲绳式日本语”(冲绳大和口)。但是值得注意的是“冲绳大和口”不等于“冲绳弁”,在冲绳“冲绳弁”(首里弁)尚保存完好,与“冲绳大和口”有着严格的区分。“冲绳大和口”是以东京腔即标准弁为基础的,掺杂一点奄美腔和冲绳的固有词汇,连冲绳弁特色的终助词都没有了,取而代之的是标准弁的终助词或奄美腔的终助词。而“冲绳弁”则是类似九州博多弁的一种方言,亦拥有自身的特色,和标准弁以及“冲绳大和口”有着明显的区别。另外九州的“博多弁”和“标准弁”也有明显的区分。“冲绳大和口”是在冲绳人学习日本普通话不标准时产生的,不等于“冲绳弁”。 汉语     冲绳大和口          冲绳弁 再见     今から行じ来ゅーん     めんそーれー 或(いめんしぇーびり) 不明白     分からん          分かやびらん 你好     ご机嫌や(もしもし)     はいさい 你好吗?    ご机嫌やみ?          顽丈やいびーみ? 你姓名?     お名前は何や?       う名前や何やいびーが? 你哪国?     どこから来ましたか?      まーからやいびーが 早上好       おはっ              起きみそーちー 劳驾     お愿い(お手数をおかけぇ)     御无礼さびら对 不起      すんません             悪さいびーん 谢谢     ありがてさー            御拝でーびーる 我爱你     好きや               好ちゅさ 那个是…     これや…             くりえ… 好了     さあさあ               やあやあ 好      良しゃ               とうー(ジョートー)
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