_燐光Hanabi_
_燐光Hanabi_
关注数: 0
粉丝数: 92
发帖数: 11,423
关注贴吧数: 0
年底了,有不有人讲些悲惨的事情让大家开心开心
短文~春~ 求大佬点评 春が、好きです。 変わりゆく季節の中、一番桜が舞い散る姿が見れるからです。 僕は春が好きです。 一日の終わりに庭に漂う土の匂いを堪能し、夜桜の下でゆっくりと歩く自分をも好きになれます。ですが、それと同じぐらいに、「僕は春が嫌いです」。 早々に散ってしまう桜の枝から物哀れにも感じられぬこの曖昧な季節に放つ濃すぎる花々の香さえも、いつしか悪臭へと変換してしまいますから。 季節は変わり、初夏の今では、焼き始める夕焼けの雲、緑に染まる木々に空を切り裂く飛行機雲、そのすべてが織り交ぜる景色も嫌いではありません。 何と言いますか、僕は美しいものが好きですが、瞬時に発覚する目はありませんでした。 僕は後味と余韻だけを浸っている癖があります。何もかもが最初から感じられるわけではなく、考えに考えを重ねてるうちにだんだん好きになる節があります。 そうですね。誰もが「きれーだ!」とか、「すんげー!」とか喚いてる時は、きっとほかの誰にとってまだその美しさを感じとれずにいます。例えば僕は満開している桜の花を何とも思わず、散華し始めたところからようやくその消えゆく儚さを、不意に追い求めてしまう傾向があります。多分、その原因で僕は花火のようなものが好きです。 まったくもって面倒くさいですね。影法師である人生、追えば遠ざかってしまう理想、そのすべては儚いであるゆえに、僕はどうしても追わずにはいられませんでした。 二十年前に書き下ろした気持ちはどうでしたか、ぼんやりしか覚えません。おそらく「渇き」、「痛み」、「息苦しい」などそのような中二病めいた言葉ばかりですね。それでも、それでも先生に褒められ「自分の気持ちをちゃんと書き下ろしたわよ、すごく伝わってくる」と、今になっても、その言葉を胸にし、実感しているすべてを文字にする癖をつけられました。「本当に面倒な大人になってしまいました」と、あの先生に言ってみたいものです。 今日日ではAIも画像を創り、それらしき文章も書けるようになりつつあります。いったいどのような「過ち」を起こせば、文字に人間性を保つのでしょう。かりに自分の心境まで真似してくるのなら、かえて感動してしまいます。でもそんなことはまずはないですね。 だって、早すぎる思いはきっと遅く来る感情と一致してはなりませんから。 だからこそ、僕は初夏で春の思いを反芻しました。
大佬们,求批改 愛というものは態度や行動ではなく、制御不可能の能力である。いわば、愛するだの、愛さないだの、そういうのは主観的に行う行為ではない。知る限りでは人間以外の生き物には愛を理解することはない。が、人間の皮を履いたとしても、愛を理解出来る保証はどこにもない。 要するに、「愛せなかった」のが現実である。 ある日、青臭い時期の自分と出会った、それが優しさを愛と誤解していた自分だった。今更のことだが、優しさは愛ではなかった、相手より優れているほど、もたらしてくれた行為こそ暖かさを感じてしまう。 それが優しさの正体なんだ。 主観的に誰かに与えるものではなく、受動的に受け持つ心境は優しさを反映してくれる。言い換えてみれば、自分が強ければ強いほど他人の優しさに鈍感してしまう一面、弱ければ弱いほど、他人からの「優しさ」を感じやすくなってしまう。 ただ、それだけの話である。 本題に戻そう。愛は誤解されやすい存在と思う。ちょっとした会話のニュアンスの変化、心なしの一言さえも、そこに愛は察せられる。やがてその敏感しすぎる感情は湧き上がり、過敏にして、結局アレルギーになってしまわれている。 まったくもって滑稽な話だ。 人は愛を学ぶべきと、私は思う、そう、思っていた。けれど、愛は学べようのない「制御不可能のアビリティ」でもある。だからいくら努力し、幾度心を寄せられたとしても、きっと上達することはありえないんだ。自分の心の余裕さえなければ、いくら相手のことを思おうと、結局口から出る言葉は悪言しかなかった。いくら事後で反省したとしても、人を傷つける事実に変わりはなかった。治し得ない傷口にかける薬はどこにもない。 私は断言する。 「北国の木は年輪と伴い、強く優しくなれる」と教われた。けれど、人間は年と共に自ら成長する生物ではなかった。歳ばかりとっているうちに過ちの連鎖を繰り返すだけの、弱い生物である。そのせいか、生物本能としての「いかに自分が傷つかない」選択肢を取るアドバイスを寄りかかってくる。多くの場合、それ「一番無難」なチョイスかもしれないが、「過ちからの成長」をも自ら放棄するとも同然なことである。 そのような「一直線」は嫌いである。 過ちの多き茨の道を探って突き進んできた自分が、あの時の自分から抜き出してきたんだろうか、常々思う。やはりしがみつかれてきた全てこそ、今の私を構築している要素とも言える。「若気の至り」といい、なんだといい、日々後悔を繰り返している自分も滑稽でならなかった。 効率主義は自分の性分だ。 長い年月をかけて、採るか採るまい成績を重視することは根性のない自分にとって意味はなかった。けれど私は並大抵の人間と特に劣ることはなく優れることもなかった。だから普通の恋愛より驚天動地の愛を求めたいわけではなかった。 それでもいよいよ彼女と七年目を迎えてきた。 彼女出会う前までは、愛を主観的に自ら行動して、手に入れるものと思っていた、そうであるはずだ。でも彼女との出会いをきっかけにし、他人という地獄から垂らすひと束の蜘蛛の糸を掴み、私をそこから救い出してくれた。 この制御不可能の能力を引き出し、名をつけるのなら、愛以外の何物でもないんだ。
换个语言肯定又发不出来 夜明け前のたわごと ぼんやりした頭でどこから話すべきかはわかりません。 なにせ最近起こった事件やいろんな声が混ざりあっていて、いつしか自分の考え方も変わってしまいました。 「僕は学識のある人を尊敬します」 これは全てを話す時の前提です。 それゆえに学歴のみを追求する人になりたくなくとも、わりと尊敬しています。 なぜなら、僕の成し得なかったことを努力で手に入れたのですから、尊敬せずにはいられませんでした。 ほぼ二十年の時間をかけて、幾度の努力を重ねあって、ようやく手に入れた地位を、あっさりと覆す「彼ら」は嫌いです。 僕は学校から卒業して間もない時期から今でも後悔しています。 もっと勉強を重ねていれば、僕はきっと素敵な大人になれたはずとそんな調子こいた考えすら思っています。 ですが、彼らはそれを認めるはずもありませんでした。 なぜなら「君らが今貧乏しているのは、身分をわきまえず、プライドのみを高まらせ、はっきり言って努力が足りないっ」と断言してくれましたから。 俄然の末、僕は憤る気持ちでいっぱいです。 確かに、僕みたいな人間が努力してるとはどうしても言えませんでした。 それでも頑張って生きていますし、学生たちも勉強を頑張り続けてきた、そんな事だけで他人から安易に貶されるべきではありません。 躊躇なく他人の努力を踏みにじり、民衆の声を聞こうとせず、いま直面している問題を見ようとせず、自分が統べる人間たちの幸福を思おうとせず、あげくにこんな侮辱しか思えない暴言を言い放っています。 「なにを考えていますか?」 そう思っていたとしても、言っていいこととそうでないことの区別がつかなければ、何をもって専門家を気取っていますか?何をもって民衆を代表しますか? 世論の方向は変わりつつあり、いつしか価値の低い仕事イコール人生の試練みたいな単純な話になってしまいました。 そんな試練は本当にいりますか?いろんな仕事を試してきた僕からすれば、意味がありません。 ただ単純な作業から価値はうまれません。ですが、簡単な作業をよくやって完璧にこなす行為から真価は発揮されます。ただ、それだけの話です。 いまこれらのことばかりで悩んでいる自分がその真価を手に入れたがっています。 ただ、それだけの話です。
1
下一页