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有会翻的吗 慶長2年(1597年)7月に元均率いる朝鮮水軍による攻撃があり、反撃により漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅に追い込んだ日本軍は8月より主に全羅道から忠清道へ攻勢を掛けた。長政は再度5千人の軍役を課せられ加藤清正や毛利秀元らと右軍を形成して黄石山城を攻略し(黄石山城の戦い)、8月に全州で左軍と合流し、全州会議に従って各軍の進路を定めた。長政ら右軍は忠清道の天安へ進出した。日本軍の急激な侵攻を受けて、漢城では明軍が首都放棄も覚悟したが明軍経理の楊鎬が抗戦を決意し、派遣された明将の解生の軍と長政軍が忠清道の稷山で遭遇戦(稷山の戦い)となり、激戦の末に秀元の援軍もあり明軍を撃破し、数日間稷山に駐屯した。駐屯中の長政に対して、解生は白鷹を贈るなどして和議を求めた[4]。長政軍が稷山に至ると漢城では恐れ戦いた多くの人々が都から逃亡した[7]。その後、長政は秀元、清正と鎮州で会議を行い、竹山、尚州、慶山、密陽を経て梁山倭城を築城して守備についた。 占領地を広げて冬営のために布陣していた日本軍に対し、12月末から経理・楊鎬、提督・麻貴率いる明軍が完成間近の蔚山倭城へ攻勢をかけ(第一次蔚山城の戦い)、加藤清正が苦戦すると西部に布陣していた日本軍は蔚山救援軍を編成して明軍を撃破した。長政はこの救援軍に600人を派遣しており、後にその不活発さを秀吉から叱責される。明の攻撃を受けた諸将は今後の防衛体制を整えるために蔚山倭城(最東方)、順天倭城(最西方)、梁山倭城(内陸部)の三城を放棄して戦線を縮小する案を秀吉に打診したが却下された。結局、長政の梁山倭城のみ放棄が認められ、以後撤退命令が出るまで長政は亀浦倭城へ移陣した。慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去し、日本軍が明軍を三路の戦いで撃破すると長政ら日本軍はそのまま撤退した。 このように朝鮮では数々の武功を挙げたが、同時に吏僚である石田三成や小西行長らと対立した。
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